タコノキ

実がなる

スピノザ「エチカ」を読んでる(一)

はじめに

この記事は岩波文庫 青615-4 「エチカ」を読んでいる時のメモであり、実況的な思いつきです。
ほとんど自分のために書いているので、「エチカ」が手元になければ何を言っているのかさっぱりわからないと思います。
けれども願わくば、偶然、手元に「エチカ」がある人は、ぜひとも「エチカ」を取り出して一緒に読んで欲しい。一緒に読んでくれる誰かを頭で思い描きながら書いているものでもあるから(そして、たとえそういう人が一人もいなくても、思い描くだけで楽しいので、そうしているのです)。

岩波文庫上下巻、あわせて六百頁くらい。
死ぬほど長い本ではないですし、読み解くのは大変でも、読むだけならそんなに大変ではないです。
それに訳者の序文がとてもいい。壮大なる「エチカ -倫理学- 」へのイントロとして、これほど心躍らせる序文があることがとても嬉しい。ドラクエ序曲くらい、すばらしいイントロです。
よろしければ岩波文庫版「エチカ」をお手に取ってはいかがでしょう。岩波文庫の棚の青いとこにあります。カタカナ三文字見つけやすいです。

この記事は読み終わるまでたぶん続きものになります。
「エチカ」を読み始めてなんですが、僕はこの本を徹頭徹尾最初から最後まで精読するとは思ってない。たぶんどこかで読み飛ばしたり、解釈を諦めたり、変な読み方で無作法に面白がったりすると思います。
そういう様子がバンバン書かれるので、ご不快に思われたら、読まなくてよいです。
難しい本を素人が読むとこうなるもんです。スピノザ読解に一家言あるような人がもしいらしたら、このブログはおすすめしません。

僕の願いはこうです。
何となく「エチカ」を読み始めたあなたが、本を閉じたその少し後、「エチカ」という本に付されたコメント、それもニコニコ動画のばーっと流れてくるコメントくらいの感覚で、この記事を読んでくれること。

第一部

定義
  • 一: やがてそのうち、神は自己原因的なものである、という話になるのだろう。
  • 二:
  • 三: 概念が存在するために十分なもの。
  • 四: 実体の本質そのもの、とは言ってないようだ。あくまで知性の知覚。
  • 五: 「他のもの」が関係あるのだろうか?「他のもの」が考え得る、実体のさまざまな姿ということだろうか。
  • 六:
  • 七: 素人なので、早計にも、もうこの一定義から深くありがたいメッセージを読み取りたくなってしまう。
  • 八: 永遠なるもののみから成るのであればそれも永遠性をもつ、当然のことを改めて述べた感じのおまけ的言及にみえる。
  • 九:
公理
  • 一:
  • 二:
  • 三:
  • 四:かなりこれは認識のことを高く信じている感じがする。結果を見ても原因がわからないことなどいくらでもある気がするが、そうではないのだろう。
  • 五:
  • 六:
  • 七:
定理
  • 定理一:
  • 定理二: えっ?実体は自己で完結するということか。
  • 定理三: 公理四がそういうことではないのがわかった。
  • 定理四: 物、実体、変状。それ自身のうちにある、はわかるが、他のもののうちにあるとは一体どういうことか。ここで、定義三と定義五が対の表現になっていることに気がつく。
  • 定理五: その変状でもって複数の実体を区別することはできない。
  • 定理六:えっ?なるほど
  • 定理七,八: 「サビ」って感じ。
  • 備考二: 実体には始めがない。実体は個々に特有の属性をもっている。属性は実体間で共有され得ない。実体はそれ自身によって考えられるものである。様態的変状は実体のうちにあるものではない。なんとなく実体から生じ、表面を覆うもののように思っているがそれでいいのだろうか。
思うこと

様態的変状の本質はどこか他の物の中にあり、その物によって様態的変状のさまを考えることができる。
実体の存在という真の観念をもちながら、それを疑うことはあり得るという。しかしそれは不条理なことであるという。なぜなら実体の存在は真の観念なのであるから、らしい。
実体ちゅうのは絶対にあるんだから、疑う余地はなかろうと。なるほど。
定理八の備考は、かなりこちらの興味をひいてくる。なにせ、ここで初めて「人間」という最も興味ある対象を表す言葉が出てくるのだ。
曰く、同一本性を有する実体はただ一つしか存在しない。では人間一人は実体なのだろうか?それとも、人間という実体の変状なのだろうか。
あえてこの備考で人間二十人とかいうすごく興味を惹く言葉を用いているのは適当やたまたまではないだろう。
この備考二で述べることは、おそらくこうだ。
この二十人は本性を同じくする多数の個体であり、その存在には必然的に外部の原因がある。外部の原因があるということは、自己原因ではない。つまりそれは実体ではない。と、いっているはず。
では、定理に戻ろう。

  • 定理九,十,備考: なるほどこの部の言いたいことが見えてきた。自然において実体とはただ一つ、先に述べた神のみであるという話になるのだろう。
思うこと

実体は属性により構成されると知覚される。実体とはそれ自身によって考えられるものである。よって、属性は属性自体によって考えられる。
さっきから繰り返している「それ自体によって考えられる」とは、自己によって自己に言及できる、つまり自己原因と意味を同じくするであろう気がする。
ところで、「より多くの実在性」とはなんだろう。実在性が多くなるほど属性が多くなるという。定義四から明白であるというので、定義四をみる。
ようは、属性が多いと知性によって知覚されまくるので、知覚されまくるということは、実在性が多い、逆に言えば、実在性が多いなら、知覚されまくるので、属性が多い、ということらしい。ふむ?
そして、実在性が多くなるほどに、それは必然性へとせまっていくのだという。
ようは、神は必然的に存在する、という結論へと向かっていくのだろう。

  • 定理十一: 「存在することを妨げる何の理由も原因もないものは必然的に存在することになる」。
思うこと

神の本性を考えると、存在することを妨げる理由や原因をどこにも求めることができない。
また、無限な実有は有限な実有よりも有能であるので、有限な実有のみがあって無限な実有がないということはない。なぜなら有限な実有が存在できるのならば、より有能な無限な実有も存在できなければおかしいからである。
あるいはもっとシンプルにいえば、属性が多いだけ実在性が高まるのだから、無限の属性をもつ神は無限の実在性、すなわち必然性をもって実在することになるのである。
とのこと。
まあでも簡単にはわかんないよね、と言ってくれる。親切である。
堅牢なもの、すごいものほど生じ難い。人間社会の常である。無限にすごいものなど無限に生じ難いに決まっている。これが我々の感覚であるという。ごもっとも。

さらに余談

ここで浅薄な俗人であるところの、阿呆極まりないおれはこんなことを思う。
「いま流行りの陰謀論ってヤツ、あるだろ。巨大な何かが何かの目的のために人々を操ってるとかいうヤツ。あれも、ものすごーく大きくて得体が知れないなんかがある、みたいなこと言うじゃん、ここでいう神ってのはああいうのなの?」
まあそんなわけがない。どうせこの本のどこかに書いてくれてるだろうと思ってページをすっ飛ばしてみたら、果たしてこの第一部付録が、まさにそんな感じの「偏見」を排するために苦心されたものだった。おれはスピノザの手のうちにある。
この付録を、昨今はびこる陰謀論を念頭において、それを打破するようなものとして読むことは現代の我々にとってはけっこう簡単なはずなので、是非やってみてもらいたい。

今日読んだのはここまで。

神という実体

日が明けて、定理一二あたりに目を通す。
目を通すんだけど、昨日読んだ範囲でもうなんていうかなあ、言いたいことは全部言ったあとなんじゃないかななんて思っちゃう。
ここから先しばらく「神というただ一つの実体」についての定理が述べられるわけだけど(定理一四にそう書いてあるし)、これを述べるためにここまで全ての定理があった。
そこまで誤謬なきよう私は丁寧に証明した。
あとはもうわかるね?
みたいな。違うんかな。
「エチカ」の浅瀬でちゃぷちゃぷし始めたばかりのおれはそんなふうに思ったので、ここから第一部のおわりまでは、目を滑らせてもいいような気がしてくる。
ここまでの定理をおれは結構丁寧に読んできたつもりだから、まあ、いいことにする。
形式上ここから先も定理とその証明、というふうに書かれてはいるけど、ようは、神という唯一の実体がかくあるものである、明白だよね、そうじゃなきゃ不条理だよね、と繰り返している感じだ。
おそらくこの第一部の大サビに当たる定理一四、定理一五。これがこの部で最も言いたいことであったのだろう。
また定理一五につけられた長い長い備考をざーっと読む。なんだか、「エチカ」が出版の翌年に発禁になった理由の一端がここにある気がする。
明らかにここにある「彼ら」とか「人々」というのは当時、スピノザからみて宗教的にこう、敬虔ちゅうのか、懸命ちゅうのか、そういう人をさしている。でもって、彼らの思う「神」の姿を、間違いである、誤りである、とんだ勘違いである、等々、これでもかと否定する。
おれはヨーロッパの歴史について全然知らないし、まして神をめぐる一般的認識がどうであったかとかも全然知らないのだが、まーこりゃなんだか、偉い人に怒られそうな内容だなと思う。

腹減った。そろそろ飯を作って食べる。