タコノキ

実がなる

移動し続けたい——定住の苦難、ものを持つ苦難について

プロローグ

恍惚としていた。毎日この気分でいられないかと思った。
20キロメートルくらいを散歩仲間と連れ立って歩いた。道中ワイワイしながら飲みものを買ったりして、最後はスーパー銭湯で風呂に入って帰った。
帰りの電車の乗り換えで、ふとのホームから空を見上げた。ビルの電飾が見える。なんて綺麗なんだろうと立ち止まった。目の前に電車が来ていたが乗るのをやめて外をほっつき歩こうかと言う気分になった。さすがに疲れていたのでやめた。
電車に乗って最寄駅で降りた。降りたら風が気持ちよかった。たまらなくなったので改札を出て家とは逆方向に歩き始めた。ふらふら歩いて、路面に飲み屋が並ぶ通りの路地を抜けたり、パチンコ屋の前を通ったり、辺りが暗くなる住宅街のそばに行ったりした。ずっと気分が良く、家の明かりも、気温も、風も、何もかもがおれを恍惚とさせた。
外を歩いているだけでどうしてこんなに気持ちよかったのだろう。だいたい5時間、20キロメートルほど、眺めの良い河川敷に沿って、笑い話を色々しながら、面白いものを見つけたらみんなでわいわいしながら、ずーっと長い間自由に体を動かしていたからだろう。身体にいい作用を及ぼしそうなことしかしていない。だからいい気分になったのだろう。やはり始めに身体があるし、身体だけがあり、身体を万全に活動させることさえできれば幸福なののである。
こうした恍惚をインスタントに毎日得る方法はないか。毎日夜風に吹かれるだけで楽しく、街の全てが美しく見えるような気分を、簡単に再現する方法はないだろうか。毎晩こんな気分でいられたならば、おれは永遠でも生きられるに違いない。
日中ずっと歩き通しで毎日を生きるわけにもいかない。疲れ切ってしまう。衰弱する。それに、たぶん飽きてくるし、ほかの活動もしたい。
ほかの活動は、おれにこの恍惚を与えてくれるだろうか?おれが思いつく限り、自由に体を動かすことでしかこのような気分になることはできない。ならば毎日このような気分になることはできない。おれは悲しくなった。毎日毎晩恍惚として夜風を浴びることはできない。当たり前だろうと思うかもしれないがすこしも当たり前ではない。
どうしておれは日中様々な活動を行い、日が沈んでから色々な気分にならねばならないのか。なぜ毎日この脚で身体を移動させて、同じように気持ち良くなり、同じ恍惚の気分で夜風を浴びることができないのか?どうしておれはそれを選ぶことをしないのか?
毎日色々なことがあり、その色々を果たしていくことをどうしておれは選ぶようになったのか。ただ歩き、気分良くなり、夜になったら恍惚の余韻に浸って眠る。それを繰り返すのでもよかったではないか?
どうしておれはそのように生きられないのか?

ものを持つことの苦難

今日は昨日の運動のおかげで下半身が重い。
家の片付けと洗濯をいろいろやる。
何かの本に書いてあった。
「人類の歴史全体で見れば定住生活のはじまりはほんの最近に過ぎない。それまでのあいだ人類は遊動生活を送っていたのである。定住生活に適応するのは大変なことだ。そして、この適応の苦しみは個々人の生においても繰り返される……」
ちなみにこの、何かの本に書いてあった、というのをおれが使うのは、何の本に書いてあったかははっきり覚えているけれどもその文脈に沿った引用をするつもりはない、という、具体的な書籍名を上げるには失礼な動機のときだ。
定住生活への適応の苦しみ。たしかに、そうだ。定住するから物を片付けなければならないし、掃除をしなければならないし、洗った服をどこかにしまっておかなければならない。
外に出て何か物を買い、手に入れる。これは遊動生活的喜びである。定住する以前の、人間のより原初的な喜びをそこに感じる。目についた食い物とか、面白いものとか綺麗なものを手に入れる。これは極めて楽しいことだ。
たいして買ったものを管理し、保存し、整頓し、物によっては飾ったりする。これは定住生活に特有の行為である。
こうした行為は喜びにならないかもしれない。
ものは買った瞬間が一番面白く、買ってそれっきり、というのはなにも不自然ではない。むしろ自然である。買ってそれっきり、というのを非難したいのであれば、非難と一緒に人間の定住生活上の喜びを説かねばならない。ではおれは、定住し、ものを管理し、整頓する喜びを、外で物を買ってくる喜びと同列に語ることができるだろうか?できない。よしんばそうした喜びがあるとして、それは高度な理性を意識的にはたらかせて初めてもたらされる喜びである。人は定住に際し、原初的な喜びを感じることができない。
「買った物を持っていて何が面白いのか。」
こう問うと、持っていること自体が嬉しいと答える人がいる。
しかし本当だろうか。
持っているという事実だけが継続的に嬉しいとしよう。ではあなたは家の壁に穴をあけ、買った物を放り込み、また元通りに壁を塞いで封じ込めておいても、所有の事実は変わらないのだから、その物を持っていることを嬉しがることができるのだろう。
本当にそうだろうか。そんなことはないと思う。
買った物を持っていること自体は少しも面白くない。むしろ、煩わしく思うのが自然である。
買ったものは買った瞬間に煩わしくなる。これが基本だ。その基本にどれだけ価値を上乗せできるかは、そのものと、ものに相対する人次第である。
煩わしいのは、「せっかく買ったのだから捨てられない」という、所有の事実からくる葛藤である。
では昨今言われるような積極的に捨てる活動にいそしむべきなのだろうか?違う。積極的に捨てる活動は一種の反動的な、拒否的な反応にすぎない。
普通にものを捨てるのと、積極的にものを捨てるのは何が違うのだろう。
まず、普通に物を捨てるとはどういうことか。どのような判断が我々の中で行われるのか。いずれにせよ判断の結果は常にこうである——捨てたほうが益になる。
捨てられるものには二種類ある。

  • そもそも所有したつもりのないものは簡単に捨てることができる。たとえば、部屋の隅の綿埃、食べ物の包装など。我々は衣服を所有してはいるが、その衣擦れから生じる綿埃を所有したつもりはないし、食べ物が欲しかったから買ったが、その包装は販売運搬上の都合によってつけられていたものにすぎない。
  • 一度所有したが、もはや所有していたくなくなったものを捨てることがある。しかし、積極的に手放すことは稀である。一刻も早く忘れ去りたい人間からの贈り物などは積極的に手放すかもしれないが、自ら手に入れたものを捨てるとき、われわれはあえて奮起する必要がある。この瞬間以外もはや自分が死ぬその日までも絶対に顧みないことが明らかであろう品であっても、それを自分が所有したと言う事実だけで、我々の捨てる意志を妨げるには十分である。
    • しかし人は物を捨てる時が来る。それは、捨てることによる益が、所有することによる益を上回ると当人が判断できた瞬間である。当人が判断できたと言うのが肝要である。冷静な判断というよりはある種熱意を伴う決意と言ったほうが近いかもしれない。この決意をするには、あえて捨てることによる益を勘定しなければならない。役所へ申告をして初めて還付があるように、捨てることの益は、あえて勘定しなければ発生することはない。物を捨てる困難とは、物を移動する労力やゴミに出すための手続きのことではない。この「捨てることの益」を勘定し、自分を納得させ行動させるのが最も困難なのである。

我々が普通にものを捨てるときは、所有することの益を一旦忘れて、捨てることの益を意識的に勘定しなければならないのである。
では積極的に捨てる活動にいそしむとき、そこにはどんな動機があるのだろう。
まず、積極的に捨てる活動の特徴は、捨てること、その行為自体に益を見出そうとすることにある。
8割捨てる、みたいな標語を、大きな本屋の一階で見かけることがある。やたらとものを捨てたがる。捨てることによって身軽になる。より根本的には物を所有したくない。こういう動機である。これが、積極的にものを捨てるということである。
これは定住生活を拒否することに他ならない。なぜなら、物の所有は、定住が必然的にもたらす現象だからである。それを拒否することは、定住生活の拒否につながる。
物の所有を拒否するそのありようを我々は一般的に敬遠の目で見る。8割捨てる、みたいな表紙の本を見た時、ほとんどの人はえっ、と思うはずだ。それには色々な理由があるだろう。単に共感できなくて気持ちが悪いとか、そんなに捨てたら生活できないとか。
けれども根源的には、我々が時間をかけて今まさに適応しようと試みている定住生活の様式を、一部ながら徹底的に拒否する、左様、一部徹底的に、というこの矛盾。定住のメリットを享受しつつ、所有の面倒は拒否する。定住しながら定住の宿命を拒否する。この矛盾への嫌悪感が、8割捨てる、という文言を目にした時の敬遠につながるのである。
定住すると物を所有する。買ったものは所有しなければならない。買ったものは、買ったそばから煩わしくなってくる。煩わしいなと思いつつ、ものをしまうための場所を用意する。ものをうっちゃっておくか、しまうか、捨てるか。我々はいつもそこで逡巡する。ふと部屋を見渡す。うっちゃっておかれたものが目に入る。捨てても困らないかもしれない。そんな思いが去来する。そうしていつの日か、部屋の片付けをする時が来る。我々は自らを鼓舞する。捨てる事の益を懸命に見出して勘定する。その結果、捨てても困らないかもしれない物のうちのいくばくかが実際に捨てられることになる。それ以外は新たな場所にしまわれるか、うっちゃって置かれたままになるか、どちらかである。
これが普通だ。普通の人間の暮らし方である。やたらと物を捨てたくなるとき、我々はこの普通を忌避している。
普通を忌避するとは、何か特別なことを求めることである。やたらと物を捨てたがり、「不要なもの」のない、いつも整っていて見通しが良くてぴかぴかの部屋を欲するのは、家を特別なものにしようとする試みである。そして当然、家は特別なものにはならない。
当たり前だが家は当人にとって普通のものであるべきである。不要と判断したもの、いや、進んで周囲のものを不要と判断する理由をとやかく求めて、物の所有を拒否した家が、普通のものになるだろうか。それは定住生活の普通を失った、特別な場所である。それは旅先のホテルとかに求めるものであって、自宅に求めるものではない。
家は定住生活における普通の拠り所である。その拠り所を失ったら、人はどこに現代人間一般的の普通を持っておくのだろう?現代人間一般的の普通を失った人間はどうなるのだろう?おれはその不安を思わずにはいられない。現代人間一般的の定住生活を拒否すること、それは求道者の道である。人はそんなに簡単に求道者的に生きられたりするのだろうか?求道者的生き方を、本屋の一階でなんだかスマートな装丁の本でおすすめしたりして良いのだろうか?
しかるにより、やたらと物を捨てたりするべきではない。物を捨てることそのものに価値を見出してはならない。それは拒むべからざる定住の宿命を懸命に拒んでいるだけだからだ。物を捨てるときは、捨てる事の益をいちいち勘定して、自分を懸命に説得して、苦労しながら捨てるほかはない。
それが現代定住生活の普通である。我々は未だ、物を所有する術を完全には身につけていないのだ。

情報処理技術とインターネットの著しい進歩によりクラウドとかPaaSとかそういう言葉が生まれた。それに対応してオンプレミスという言葉がレトロニム的に発生した。
ようは企業は自分のところにサーバーとかを保有して情報処理を行う以外なかったところに、どこかの大企業が設けた膨大なコンピュータリソースを借りて、自分のところにはサーバーの筐体を持たないという選択肢が生じた。
そういったサービスが流行っているのにはビジネス上の理由がいくつもあると思うが、そもそも「でかいもの持ってるって大変じゃん」「持ってるより持ってない方が身軽じゃん」という、所有を拒否したい気持ちを満たすものでもあるはずだ。所有は面倒がつきまとうのである。
究極的にはどこにいても何でもできるのが一番良い。どこにでも行けて、何でもできる。すなわち、遊動しつつ、所有しているかのように振る舞うことができるのが、個人にとっても企業にとっても最も理想的な在り方である。情報処理技術によって、企業は一部ながらそんなことができるようになってきたわけだ。
ひょっとしたら、正規雇用と非正規雇用にも同じことが言えるのかもしれない。ずっと人を抱えているよりも、必要な時に必要なだけどこかから人間を借りてくる。たくさんの人を従え、労務管理をするのは大変だ。これも、企業にとっては所有の面倒である。
その所有の面倒を臆面もなく露わにしてきた企業が、いまは深刻な社会問題の原因となっているわけだが。

所有の面倒に屈した個人が所有を拒否して物を捨てたがるのも、企業が所有を拒否して計算資源や人的資源を外部から借りるにとどめるのも、現代定住生活の拒否という共通の反動的欲求があるように思われてくる。

定住生活がはじまって一万年がたつという。
それ以前の長きに渡り、我々は遊動生活をしていた。遊動生活の姿をありありと想像することはもはや難しい。
我々が定住生活をこのまま数万年と続けた暁には、こうした所有の苦しみに伴う諸問題、すなわち部屋の片付け、掃除、物の管理の煩わしさ、といった問題はすっかり解決して、忘れ去られているのだろうか。
物を持つのが全く面倒でない世界。定住の技術を完全に身につけた民族。それはどんなものだろう。おれには全くわからない。