タコノキ

実がなる

具合の悪そうなおじさん、めっちゃいる

会社に行くと具合が悪くなる。
際立った不調を即座に訴えるような、例えば家を出ようとするとお腹が痛くなるとかそういうことはないが、会社にいる間の体の不調をつぶさに観察すると大体以下のような具合である。

朝自席に着くとまず今日やることはなんだったかと考えて、予定表を見たりする。
が、手をつけるべき作業がなかなか思い当たらない。意識がはっきりしていない。
予定はある。しかしそれを消化するにはどうしたらいいかが即座に思い当たらない。15分くらいぼんやりしてようやく手を動かし始める。
人に用事を話しかけたり、人に話しかけられたりする。
このとき、あまり流暢に言葉が出てこない。
いつもおれは眉間に指を当ててうつむき、必死に話すべき言葉を探る。あーとかうーとか言いながら状況をなんとか説明したり、次にするべきことをとりあえずひねり出したりする。
外に出かけて作業をすることがままある。
パソコンを入れたリュックが重たい。歩いていると背中が引っ張られて息がしづらくなってくる。踵に負荷を感じる。靴底が薄く感じる。足が痛い。
目的地に着いたら荷物を開け、パソコンを机に置き、目の前の環境の種々の問題に対処しようと試みる。
するとなんとはなしにイラついてくる。
出がけに買っておいた固ったいグミをにぢにぢ噛み始める。
作業がひと段落すると、次の作業が目の前に現れてくる。さてどこまで手をつけようかと考えるが、もうそんな元気はない。
どこまでやったとメモだけして、出先から帰ることにする。
作業を終えて事務所へ帰る。
行きもリュックは重かったが、帰りになるといっそう重く感じる。帰り着くと目の奥がぎりぎりと痛む。
ディスプレイがよく見えない。
目がじゅうぶんに開かない。テキストが二重に見える。眠気が突然頭を殴りつけ、たびたび気を失いかける。奇怪なストレッチなどしてみる。
夕方の事務所で明日のことなど考える。
そうすると大体今日やり忘れたことが一つや二つ出てくるので、嫌々手をつける。
このあたりでめちゃくちゃため息をつく。
もはや背筋を真っ直ぐに座っている気が起きない。おれは背もたれによりかかり天を仰いでいる。
日が落ちて帰り支度をする。
頭はろくに働かず、散らかした机を片付ける順番がよくわからない。
ゴミを先に捨てた方がよいのか、パソコンを先にしまったほうがよいのか、どっちでもいいことに悩んでうろうろする。
こうして一日が終わる。

こんな有様をもはや隠すこともしなくなった。
働かない頭のまま適当に喋ることも怖くなくなった。
手がつけられない仕事は全部部下に任せるようになった。
どんどんふてぶてしくなる。目上の人間に畏まるのももはや面倒くさい。事務所にいるとあー、ッスねぇ、みたいな話し方しかできなくなった。
それでもなるべく仕事はする。なぜか?
会社にいる限り、仕事をサボるよりも仕事をする方が容易いからだ。会社にいるとき、おれはなるべく容易い振る舞いをする。容易くできることだけをする。
自分がここにいる限り、なるべくこの先も容易くなるように、そのことだけを考えている。辛いことは一切しない。

会社にいると具合が悪くなっていく。
それは安逸なことだけをやっているからだろうか。いっそ粉骨砕身の覚悟を決めるほうが元気なのかもしれない。
そうなると、会社で妙にハツラツ元気な人というのはおそろしい。
でも、具合の悪そうなおじさん、めっちゃいる。
だからおれのやり方は間違ってないと思う。

生まれ育ったことと、老いること

近ごろは親とよく会うようにしている。

家を出て、親と時々会うのは、過去に立ち戻り、自らの生まれの記憶をたどり、かつての日々を思い出すことにとどまらず、過去どのようにおれが育ってきたのかをこの身に引き受ける壮大な試みである。
生まれ育った過去は、思い出と呼ぶにはあまりにリアルである。
それは、誰にとってもそうだ。親がどうであったかにかかわらず、過去は血肉のかたまりで、向き合うことはその温かさと汁気を全身に受けることである。
郷愁というと美しすぎる。これは郷愁とは別に存在する。
自分の生まれ育った事実と、それがいまや過去となり、生まれ育った事実と今このおれが生きている事実が噛み合わないのを、ぎちぎちと調整するような、親と会うといつもそんな心地がする。
生まれ育ったというただそれだけのことを、人は人生のうちで、一度でも一瞬でも、忘れることが必ずある。そればかりか、生まれ育ったという事実を長きにわたって忘れたまま生き、そのまま死ぬ人もいくらでもある。
主観からみた人生は不連続である。過去の自分と、今の自分が地続きであることなど到底信じられない。
しかし事実として、人が生きるというのは常に地続きの体験に他ならないのである。
人は生まれ育ったことを忘れる。忘れることでようやく、己の人生を発見しようと試みることができる。
しかしいつか思い出す。それは多くの人の場合、親の老い、または死、あるいはなにか、時が経つことで必ず発生する事件によって。
生まれ育ったことを血肉のかたまりの実感を伴って思い出す時、人は笑顔であることはできない。涙を流すこともない。
きっとただ遠くを見つめることしかできぬであろう。
しかし不幸せなのではない。いままで忘れていた、生まれ育った事実をこの身に引き受けるとき、人は誰しもそのようになるのである。
生まれ育った事実は、「過去、生まれ育った」という形にならねばならない。
生まれ育つままに人は人生を締めくくることはない。
それは親元を離れるか離れないかとかそんな些細な話ではない。
人はどうあろうと勝手に、生まれ育つままではいられなくなるのである。
そうしてやがていつか、生まれ育った事実を、過去そうであったこととして思い出す。思い出し、引き受け、それが済んだらおそらく、人は老いていくフェーズに入るのだろう。
老いを知らない若造が想像するに、老いるとは、すべての過去を徐々に了解することだ。
これまで自分が過ごしてきた時を物理的には肉体に引き受け、想念的には思想に引き受け、それを数十年とかけて行う営みだ。老人たちの昔話は、そのもっともポップなやり方である。
過去を引き受けることは苦しい。なんとはなしに苦しい。それは、若者が自らの人生を発見しようと試みるのがなんとはなしに苦しいのと寸分違うところがないはずである。
なぜならどちらも、自らを探求することに違いないからである。
過去を引き受け、自らがどのような者であるかを、その過去の総体として嫌々ながら引き受けた時、人は老いることができる。

父親は、長年の勤め先の仕事もほどほどとなり以来、最近は某県山中の生家によく通っているらしい。
庭の木を手入れしたり、藁屋根の破れを気にかけたりと張り切っているそうである。
我が家の女性陣の目は極めて冷ややかである。
今や住む人もいない家、それどころか村に住む人すらほとんどいない山中に通い、庭仕事等々に勤しむのは確かにみようによっては、というか、フツーに考えて、どうかしている。
単なる愛着であろうとおれは思った。
いわば郷愁のなせることであろうと。
しかし、おそらくそうではない。
あれは父の老いの営み、つまり自己の探求、過去を引き受けるための努力なのだろう。
言ってみれば、若者で言うところの「自分探し」である。
自分探しにマジになると、ヒトから見るとどうかしているようにしか見えないものだ。
しかし、人は自分探しをせざるを得ない。しなければ生きていることはできない。
探すとはどこか外に求めるのではない。
己をただ一人で孤独に探求することである。
父の行いもこれである。たぶん。

第二の人生が気楽なものになるなど大嘘である。過去を引き受けることが気楽であるはずがない。なぜならそれは自己の探求であるからだ。

なんというかしかし、こういった傾向は、爺さまのほうが婆さまよりも顕著であろうと思われる。「どうかしがち」なのはだいたい爺さまのほうだ。
おれは父親の話も聞いてやらねばならない。
自分探しに没頭するのはキツいからである。

偶然は苦しい

今日はすいませんと何度頭を下げたかわからない。
今日はよろしく頼みますと何度人に言ったかわからない。
おれがテキトーに言ったことの間違いとそのすっぽかしが毎週毎日山のようにやってくる。覚えてねっつのそんなこと。

すみません。すぐやりますんで。あ、嘘。やっぱ用があってできないんでそこのあなたあと任せていいですか。すみません。
こんなことをよくやっている。
こんなことをすべきではない。

–––


今日はパスケースを家の中で失くして朝から探しまわっていた。そしたら15分遅刻した。
言い方が正確ではない。別に遅刻してもいいやと割り切ったうえで15分くらい探しまわっていた。こうである。
パスケースは見つからずじまいで、結局切符を買って電車に乗った。なかなか悔しい。
パスケースは全然失くしたことがなかった。なにか失くすようなことをしただろうかと考える。家に帰るまで持っていたのは確かだから、これといって決定的なことはない。
強いていつもと違うことといえば、帰り道に普段寄らない店で買い物をしたくらいである。
それが失くし物をすることと何か関係があるのかというと何もない。ただ、いつもと違うことをした。それだけである。
それだけであるが、いつもと違うことをしたのだから、いつもと違うことが起きてもおかしくないなと思ったりもする。

一体おれの生活は全てが偶然の噛み合いで保たれていた。
偶然やらなければならなくなったことを片端からいそいそやって、できるとこだけやって、できないとこはいつのまにか手元から滑り落ち、いつのまにか出来上がった。
だからおれはおれの生活の全貌を把握していなかった。把握しきれぬ偶然がおれの生活を作っていた。
生活の中でおれは無力であった。なぜならば、すべてが行き当たりばったりの偶然であったからだ。そこに意志はなかった。
たまたま今朝、不幸にもパスケースを紛失したのも、おそらくは普段しない買い物をしたことによって、偶然の作動が変化したからだ。
そして、この偶然の作動に呑まれるうちに苦しみが生じてくるのである。

偶然の最中では多くのものが億劫になる。それは、全貌を把握しきれぬ生活の作動の、どこにどんな手を加えたらどんな影響があるかがわからないからである。
どんな影響があるかわからないから、できるだけ手を加えないでおこうと思う。
そうして、珍しいことはだいたい億劫になる。友達と会う、床屋にいく、衣服を新調する、など。そのような、頻度の低く大切な事どもは偶然の中に組み込まれていないからである。
こういってよければ、大切なことは偶然の中には一切入り込んでこないのである。なぜなら、意志の欠落が偶然を呼ぶのであり、大切に思うとは意志の作用に他ならないからである。

生きるための努力とは、この憎むべき偶然の塊を意志の楔で少しずつ打ち壊し、作り替えていくこと、あるいは、意志の力で偶然の正体を読み解き、意志の支配下におくことである。

果たしてパスケースは自宅で見つかった。それは会社から帰ったあとのことだった。

雨の日

雨が降っているのにあまりに暖かい。
雨が降っていても暖かいことがある、冬になるとすっかり忘れるが、当たり前である。
じとじとしているが気分は悪くない。
外気がじとじとしているなら、おれもじとじと陰気な顔でとぼとぼ歩いていてもよい。
今日は一日お天道様にしたがって元気でいなくてもよいわけであるから、これはこれで気が楽だなどと考える。
今日はずっと一人である。
一人であるというのは、仕事の作業で一人になることが多いということだ。
つまり今日は一人でじとじととぼとぼしながら、一人で黙々作業をしてればよいわけである。
なんと良い日か。
雨がおれの背中を押している。

おそらく外気を取り入れるだけで運転しているであろう電車のエアコンから感じる外気が、ほどほどに涼しくて気持ちがいい。

寒くなければ雨はこんなにも気持ちが良い。

気持ちが良いというのは元気があふれることではない。文字通り、気の持ちようが良い感じになることだ。
良い感じとはこの場合、空気と空模様の具合にぴったりのじとじととぼとぼした気分を己の中に持ち得たことをいう。

「じとじととぼとぼ」について述べねばならない。
じとじととぼとぼは、塞ぎ込んでいるさまではない。何かに苦しんでいるわけでもない。
手をだらんとしたままゆっくり歩き、ろくに開いていない目でビルの天辺をぼんやり眺め、傘をさすのも適当にやめて、駅についたら眠るともなく目をつむり、また目を開けて他人の頭越しに曇った窓ガラスをまたぼんやり眺める。
塞ぎ込み苦しんでいる時はちがう。
ポケットに手を突っ込んでつかつか歩き、常に下か前を見ている。雨が弱くなったのにも気づかず傘をさしている。電車の中では大して興味もないネットニュースをスワイプし続け、やることなければ寝とけばいいのに目を閉じもしない。こんな連中をよく見る。

スピノザ「エチカ」を読んでる(五) -オニオンリングも神である-

第二部に入る。

第一部まで神自体の性質について述べられてきた。
初めに書かれている通り、第二部からは神から生じる一切について話をするという。
しかし一切全部の話をすることは不可能だから、その中の一部について述べていくという。
それは「人間精神とその最高の幸福との認識へ我々をいわば手を執って導きうるもの」だという。
この宣言をおれは第二部を読むあいだ、常に覚えておくことにする。

定義・公理を読んでもよくわからなかった。
定理六あたりまでざっと読んで、ここでの話題がなんなのかわかった。
定理一と二。
ここは書かれている通りのことを丁寧に読み、なるほどと言っておけばよさそうだ。
しかし思惟はともかくとして、
「神は延長した物である」
というのは結構びっくりする。
たとえば今ここにある机に延長、つまりある長さ大きさが存在するように、神もまたある長さ大きさが存在するというわけである。
証明の流れは、こうである。
全ての延長し物の中には、神のある一つの属性が含まれている。また、反対に見ればその属性からあらゆる延長した物を考えることができる。
延長が神のある一つの属性に回収可能なのであれば、神は延長した物と言うことができる。
なるほど。と、いうほかはなさそうだ。

じゃあ、この定理にしたがえば、こう言うこともできるのではないだろうか
神がある属性aをもつことで、「神はaである」と言うことが許されるのであれば、この世の一切について、ようはaに何を当てはめても良いのではないだろうか。
なにせ、神は無限に多くの属性から成るのだから。
たとえば、今おれが食っているモスバーガーのオニポテのオニオンリングも神である、
「神はオニオンリングである」
なんて、言っても、いいはずである。
これは案外間違っていない、むしろ、この「エチカ」においては正しい認識であると思っている。
第一部定理二十五の系、「個物は神の属性の変状」と述べられている。
つまり、個物、オニオンリングのような個物は神の属性の絶対的な本性ではないにせよ、オニオンリングが存在するということは、神のある属性がオニオンリングに変じたということなので、オニオンリングも元を辿れば神の属性なのである。

汎神論とはこれである。
エチカに付せられたカテゴリのひとつとして汎神論という言葉があるが、この第二部の定理一と二がまさに汎神論の立場をはっきりと主張するものである。
つまりこの第二部は、汎神論の立場からみた世界の話。
冒頭の言葉をつなげれば、汎神論を前提として、この世界にある、人間を幸福へ導きうるもの(属性、個物)たちについて説明をしていくというわけである。

第一部は前置きであった。
「エチカ」の本題へ迫るために、神の在り方をきちんと証明しなければならなかった。
確かに存在すると証明された汎神的神が、ぶわーっともたらした、あるいは神から流出したこの世界と人間についての話が、ようやく始まるのである。

また次回。

散歩の癖、インターネットへの投稿

散歩の癖がある。ここではあえて癖という。
たとえば休日の特に予定のない時間、本でも読みに行くかと、雨も降っていないしでかけるとする。
すると歩いて一番近い店が混んでいる。ここで考えを変えて家に大人しく戻ってもよい。今日は家に誰もいないのだから静かだし、誰かの目を気にする必要もない。
それでもなんとなく外でコーヒーが飲みたい。コーヒーが飲みたいのはおれにとって外をほっつき歩く十分な理由になる。別に美味いコーヒーが飲みたいと言っているのではない。ただなんとなく家のテーブル以外の場所で、誰かがおれのために用意したコーヒーが飲めればそれでよい。
だらだら歩く。ただぼんやりコーヒーが飲みたいだけで歩くには少々長すぎる距離を歩く、確実に並ばず店に入れて、妙に気取ったりしておらず、席でキーボードを取り出しても変な目で見られなさそうな店を探す。
かなり歩いてルノアールを見つけた。いや、なんとなくこっちの方にはルノアールがあることが念頭になくもなかったが、ルノアールまで馳せ参じるつもりがはっきりとあったわけでもない。
来てしまったからには仕方ない、ルノアールに入ることにする。ルノアールちょっと高いんだけど、まあ、いいか。喫煙室もあるし。

紙巻きを週に一本吸うか吸わないかだが、煙草は好きだ。美味いと思って吸っている。
今や喫茶店では喫煙席の方が空いている。客の年齢層が結構高いルノアールですらそうである。おかげでまわりを気にすることがない。
厳重なる分煙施策によって人の多い禁煙席とはドア一枚挟んで隔たれ、ある程度静かな空間が保たれている。
ルノアールに入る時は煙草を吸っている方が得である。間違いなく。

紙巻きを吸う場所は喫煙席の中でもさらに隔離されている。
ここまでくると日常的に紙巻きを好んで吸う人は不満に思うだろうが、おれのようなたまの贅沢的な気分でおっかなびっくり吸っているようなやつにはちょうどいい。
紙巻きはうまいが席に座っている間じゅう副流煙を嗅いでいたいかといわれるとそんなこともない。なので、ちょうどいい。

メニューを開いてコーヒーの値段を見る。たけえ。でも甘いものとか軽くつまむようなものはそんなに高くない。
んじゃいっそ、と思って甘いもんも食べることにした。
むしろコメダに行く方が張り切って食いものをめちゃめちゃ頼んでしまうので、高くつく。
そんな感じで納得することにした。

さっき、席の上でキーボードを取り出す、といった。
この文章はPCで書いているわけではない。
iPhoneのメモ帳で、HHKBを接続して書いている。(HHKBはキーボードのブランド。ぜひブランドサイトを覗きに行ってもらいたい。かっこいい。)
いま、テーブルの上にはコーヒーと甘いパンと、水と、HHKBと、あとは空いたスペースに適当にiPhoneを放り投げてある。
キーボードからの文字入力は言わずもがなキーボードが最も大事であって、その打鍵結果の確認と変換にはiPhoneが十分に役目を果たしてくれる。
キーのリピート速度を早くして、キーボードの配列を正しく設定すればかなり快適な文字入力環境が得られる。
(設定の参考にしたブログ記事がこちら。同様の試みをするなら読んでみると良い https://goryugo.com/20200114/ipad-hhkb/

文を書くのは単純に楽しい。それがなんの喜びかはおれにはよくわからないが、とにかくごく単純に楽しいものであるとおれは思っている。
何も書くことがなくても単に楽しい。
好みのキーボードで打鍵するのが楽しい。
連なった文がやがて何かしらの展開らしきものを勝手に示し始めるのが楽しい。
文にひっぱられて次々と出てくるままに文を書くのが楽しい。
文を書くのは頭と運動の楽しみである。決して頭だけの楽しみではない。

遠方への散歩癖はここ1、2ヶ月なりをひそめている。
突然意味もなく生活圏から数十キロ外側へ一人で出てみたりすることはあまりない。
そもそもどうしてこの癖があったのか。
それはたぶん、仕事と雑事から離れる方法として、物理的にそれらからはるか遠くに行くことしか知らなかったからだと思う。
昔、特急列車の中で書いたらしいメモを読み返す。
「呪いは住居と土地にある」
これをいつ書いたのか覚えていない。
しかしこの時おれは、日常のすべて、仕事や家事やその他全ての雑事を呪いといい、それは自分が暮らす場所に根をおろすのだと考え、それらから離れるために特急列車にふらふら乗ったようだ。
今みると、はて、どうだろうなあと思う。
少なくとも今この時のおれは生活の全てを呪いと思ったりはしないし、そればかりか、それを呪いというのは全くもって妥当ではないとすら思う。非妥当な印象。ゾウを見てネコだというくらい、妥当ではない。

おれは誰かに呪われてなどいないし、おれを呪うとしたらそれはおれ自身に他ならないが、おれはおれ自身を呪う術など知らないはずである。

しかしまあ、当時、生活の全てを呪いと言って憚らなかったおれにとって、切実な逃避の手段として、ふらっと無計画に特急列車に乗ることが効果的であったことは認めざるを得ない。
何せおれはそうして生き延びているのである。

楽しみがすべて逃避でしかないところから、楽しみを単なる楽しみとして楽しむことを覚えようとしている。これは一つの生きるための術である。
十代の頃は文を書くことに幻惑的意味、悲壮的感覚、逃避的感情を持ち込みがちだった。
個人的な文を書く時はそうしないといけないと思っていた。
それは酒とかもそうだろう。
酒は酒を飲もうと思うから飲むだけであって、そこに酩酊による幻惑の希求、悲壮の増幅、あるいは逃避の作用を求めるのは不健康である。
同じように、文は文を書こうと思うから書くだけであって、幻惑、悲壮、逃避の一切は全く必要がない。
まして、読む人のことなど本来は考える必要が全くないのである。
しかしそれでも誰かに読まれることで、あるいは誰でも読める場所に置くだけで、文は文として、ただノートに閉じられているのとは全然違った様相を示し始める。

不特定多数に読まれることができる文を書く行為には、不特定多数に読まれようとする意志を必要としない。

これがインターネットに文章を投稿する行為の理解され難いところである。
人は、不特定多数の人間へ届けと願って文を投稿するのではない。だからといって、書いた文を投稿せずにもいられない。
文は端末からインターネットへ送信された瞬間自らの手を離れ、自らから独立した存在になる。
どちらかといえば欲しいのは、読まれることよりもこの感覚である。
そして第三者からの閲覧の可能性が高ければ高いほど、自分で書いた文は自分から独立するその度合い、独立の程度はどんどん強まっていく。
この強まりこそがインターネットに文を投稿することの喜びであるかもしれない。

自分で書いたものがもはや自分と関係なく作動している。文は読まれることで作動する。作動が可能であればあるほど、文は自己から独立した存在になっていく。
己の生み出したものが己の手を離れ、独立した存在になる。

ようは己の一部が引き離される。己の考えでしかなかったものが、可読で、決まった長さがある、明確な形を与えられる。
そうすることで、己の一部は己で保持する必要のないものになる。身軽になる。

文を書いて投稿して身軽になるのと、どこか遠くに出かけて身軽になるのは似ているのかもしれない。
遠くに出かけることで己は己の世間から引き離され、自分の身体はあらゆる基盤から引き離され、出かけた先で歩き回っているうちに疲れて頭もぼんやりしてきて……
究極的には、己自身を、己で保持できなくなる。
ただ目的地と帰路をさがして動き回るだけのものになる。
しかし当然のことながら己自身が己と共に動き回っていることには変わりがないので、己は己を引き離さんがために際限なく物理的に移動し続ける羽目になる。
だから、遠くへ行けばいくほど気分がよく、また、完全に満たされることもないのである。

真に己を身軽にするには物理的な身体の移動では用が足りず、己から生じるものを己以外の場所に置くことが必要である。
それが文を書き、インターネットに投稿することの健康的作用なのではないか。

だから、SNSのことを単純に軽蔑し、その利用者を承認欲求に突き動かされる愚かなものどもなどと見下す人は、インターネットへ何かを投稿することの意味を何一つ理解していない。
そもそも、SNSや掲示板への投稿などをはじめるのに承認欲求など全く関係がない。
だから、そうした場で承認欲求と殊更に口にするのも、インターネットに何かを投稿することの意味を全く理解していないがゆえの言動なのである。
己から独立したものが承認、評価されなければならない、というのは、奇妙である。
なぜなら、インターネットに投稿した時点でその投稿の動機はすでに十分満たされているからである。
評価されなければならないのはインターネットへの投稿をメシの種にしている人だけであって、ほとんどすべてのインターネットへの投稿は投稿されサーバーに保持された時点でその動機と役割を十分に果たしているのである。
そして、これを閲覧する楽しみが第三者にとって全く後発的に、無関係に生じてくるだけである。
そしてその第三者の閲覧によって生じる第三者の投稿への反応も、投稿そのものからは全く離れたところで、後発的に生じている。
ほとんど全てのインターネット上の何かしらの投稿サービスは、第三者からの反応を即座に確認できるように、また第三者からの反応が多ければ多いほど良いもののように見えるインターフェイスになっている。
しかし、投稿された作品がいかに第三者にとって優れたものであるかどうかと、インターネットへ何かを投稿する動機、欲求には、本来的に全く関係がないことを、我々ははっきりと理解しておかなければならない。

インターネットへの投稿は散歩と似たようなものだ、ということを述べた。その散歩の意味も、もしよければ、いまここから少々読み返してもらえばわかるかもしれない。

話は右往左往、手元にいったり遠くに行ったり、じつに変な文章であっただろう。
しかしこれも散歩である。散歩であるので、仕方ない。

スピノザ「エチカ」を読んでる(四)

定理二八。
世界の一切は神の属性の変状または様態であるとずっと述べられているが、永遠かつ無限でない個物がこの世は確かに存在しており、にもかかわらず神の属性のすべては永遠かつ無限でなければならない。
ようは、この世のすべてが永遠かつ無限であるはずがないのに、個物一切は永遠無限なる神の属性の変状または様態であると主張することの困難に対する回答がここにある。
この定理の証明と備考の中でようやく、有限で定まった存在を有する個物の存在できる理そこから初めて有限で定まったあらゆる個物が発生できるというわけだ。
たしかに、一切が可能であるなら、永遠無限の属性が定まった有限のものに変状することも可能ということになる。なんだかちょっと騙されたような気分にならなくもないが。
とにかく、永遠無限なる神の属性から、直接ではないにせよ、有限で定まった個物、我々のような個物も発生しうるというわけだ。

定理三〇。
現実に無限な知性とはいったい何か。ただ言ってみただけか?有限な知性が我々の知性なのだろうけども。
そして、その知性はいかなるものであろうと、神の属性とその変状以外を知ることはないという。
つまり、知性は神を知るためにのみあるのだと。

定理三一。
能産的自然と所産的自然、という突然登場したこの言葉は、きちんと訳者注に起りと意味が書いてある。ありがたい。
さて、知性は所産的自然、つまり「動かされるもの」であるとのことだ。これは、「エチカ」の外にあるおれの直感には反する考え方である。なぜというに、どうしても人間の知性だの能力だのというものは非常に高いものであり、世界を形作る原動力であり手段であり原因ですらあるとうたわれることが多いからだ。
人間には無限の可能性、無限の能力があり、無限のことができる。これを全く含みなく、全く言葉通りに、極めて皮相的に受けとり実践することこそが、現代大衆一般の最高の徳であるはずだ。
そこに神はなく、ただ人間だけがある。人間は個々に異なった形で無限である。
「エチカ」に散々登場してきた「無限」をふまえると、やや矛盾を感じなくもない言い回しだ。しかし、そのように矛盾していることも含めて、現代ことにおれの周囲に流布された美徳の性質をよく表すことができていると思う。
ところでここでスピノザは、「知性は所産的自然」であるという。神の所産。
(ここでおれは所産、を辞書で引く。思った通りの意味で安心する)
そう、知性は神の所産物。この見方は現代の人間には違和感があるはずである。
そもそも知性の先に神を前提とすることがおれには難しい。「知性作用は我々が何ものにもまして明瞭に知覚するものである」ばかりではなく、知性作用以外に世界を決定づけるものなどないと感じてしまうからだ。
つまり、われわれは知性作用を知覚するのではなく、知性によって世界がはじめて知覚されまた存在すると、天然の状態のおれは思っているわけである。
(手持ちの本を超うろ覚えでただ思い出しただけだが、ベルクソンという人はこのような立場を取っていたような気がする。あとで岩波の『物質と記憶』を読み返してみる)
定理三一は、こうした考えを否定する。

定理三二。
定理三一のとおり、知性が神の所産物であるなら、人間の意志もまた神の所産物である。
現代のわれわれからするとなかなか挑戦的な言い草で、人間様をなんだと思っとるんじゃ、とか言いたくなりそうである。
しかし忘れてはならない。スピノザのいう神のありようを。これは平凡な運命論ではないのだ。
平凡な運命論と捉えられそうな言葉を、決してどう頑張っても平凡な運命論の原因にはなり得ない神の本性を前提において語っている。
ここに「エチカ」の旨味がつまっているに違いない。

定理三三。
これも同様である。平凡な運命論のようで、スピノザ的神を前提に置くとそうではない。

定理三四。
神とはその能力以外の何者でもない。
あらゆることの原因であり唯一の実体であり、そこから無限に多くのものが無限に多くの仕方で流出すること、それ自体が神なのである。
スピノザのいう神とはそういうものであることを、おそらくこの先「エチカ」を読む上で意識し続けるべきだろう。

定理三五、三六。
第一部の締めくくりである。

さて、この先に長い付録が続くのだが、その中では先の、ここまでの定理を平凡な運命論として勘違いすることに対する配慮のこもった文章がある種の人々への痛烈な批判とともに丁寧に書かれている。
非常に痛快であるので、ゆっくり読んでほしい。
この付録だけ「エチカ」の外へ取り出しても十分に面白いのではないかと思う。むしろ、第一部の定理群を読解しようと試みる前にこれを読んでもいいかもしれない。
それくらい面白い。
なぜなら、ここで批判される「偏見」は、現代、まさにいま社会で問題となっている何かを思い出さずにはおかないからである。

おれはこれで「エチカ」第一部を読み終えた。
言わんとするところはなんとなく、把握できたように思う。それはおそらく、スピノザが、言わんとするところをおれのような素人にも理解できるように、定理の順序に配慮して、単なる証明の羅列にならぬよう展開を意識して、この「エチカ」を書いたからに他ならぬであろう。
たぶん「エチカ」はそういう本である。
この本を読むためにいかなる予備知識も必要ないように書かれ、この本はなるべく万人が理解できるように心を砕いて書かれている。
定理とその証明という幾何学の様式をとったのも、単にスピノザの好みということもあろうが、万人が読み解くことのできる秩序を織り込もうと努力した結果なのだろう。
残念ながらおれは遠く西欧の歴史には造詣が薄いし、生きる時代もスピノザとは大きく異なる。だからたびたび出てくるギリシャ哲学を源流とする言葉等々はまったく意味がわからなかったりする。
なんの予備知識もいらないように書かれた希代の名著とはいえ、さすがに、四百年の隔たりと、数千キロの物理的距離とがあれば、多少なり意味のわからないところがポツポツ出てくるのは仕方のないことだと思う。
が、そこは岩波版の訳者注、および冒頭「『エチカ』について」で補われている。これは大変にありがたい。
ゆえに、おれはこう言うことができる。
「エチカ」は解らない本ではない。
これは万人が解るように書かれた本なのだから。
誰でも少しく考察すれば、この本を理解し得るであろう。ゆえにおれはこれによって、第一部を読み終えたと言うことができるのである。