タコノキ

実がなる

日曜日の夕方とグリーン車について

腹が減っているのだかいないのだかよくわからない。
朝飯と、昼飯らしきものを食べた覚えはある。
日曜日の朝、嫌な地震に驚き目が覚めてから漫然と過ごし16時48分、今この陽が傾き、やがて沈みゆくこのとき、おれはいったいどうしたらいいのか全くわからなくなってしまった。
もう一時間半もすれば夕飯の支度ができるだろう。しかしそれまでどうしたらいい。貴重な日曜日をどのように過ごすのが正解であるか?
して、このように「貴重な日曜日」「どのように」などと考えてしまう時点で、休日の過ごし方としてはかなりよろしくないことに、この時のおれは気づくはずもない。この焦燥こそ不快の根源であり、このような焦燥を捨てることこそ休日の本分に他ならぬのだ。

たまらず妻に声をかける。
そのへんのラーメン屋に行くことになった。
こうしておれは焦燥から救われる。

店に入ったら宇多田ヒカルが流れてきた。
宇多田ヒカルを聞こうとは、家にいる時は一度も思わなかった。
流れてくる宇多田ヒカルを聞いた。いい歌だと思った。
そのへんの店に入るのは、これが良い。聞く気のなかったいい歌ほど聞こえて嬉しいものはない。
そのへんの店は皆、宇多田ヒカルを店内のプレイリストに入れておいてほしい。宇多田ヒカルの歌にはなんかそういうところがある。

そのまま妻と別れて散歩に出る。陽のあるうち、傾いてはいても日光のさすうちに外に出られたことを幸運に思う。
さもなければ、陰気な、恐ろしい夜が待っていた。家でただ迎えるだけの、恐ろしい夜が訪れるはずだった。そうならなかったことを幸運に思うのである。
外に出るときは何か目的の場所があるのがよいが、なくてもよい。外に出れば勝手に物語が始まる。
いやにクサい言い回しだが、そうなのである。
何もすることができなかった休日とは、己自信になんらの物語性がなかった、何も始まらず、何も終えることがなかった(と、本人は思っている)ということである。とあれば、外から物語性を取り入れることで一日を正常に終えることができるはずだ。
そのあたりはまた最後に話す。

というわけで、大きな駅へゆき、適当な下り列車のグリーン車に乗る。
なぜか。なぜだろう。
いつもの癖だが、毎回おれはなぜだろうと思う。誰もいない車両の隅っこに腰かける。

下り電車は動き出した。薄明かりの中から、すっかり暗くなった外を眺める。都心に近いうちは夜の中に煌々と駅やらマンションやらの蛍光灯の明かりが浮かんでいる。
走る高架の上から街を眺めれば、そこには家々がある。
やがてこの列車は、川を越えたりするだろう。そこでは橋の上で列をなす車が、光の流れを生んでいるのが見える。

いったいどうしてどこへ行くでもなく列車に乗りたがるのだろう。
それはたぶん、列車に乗る限り、列車に乗っていればよいから、それ以外のことを何もしなくてよいからだ。
家にいてもどこにいても、おれは自分のやることを探す。やると気分が良くなること、やらなければならないこと、いずれかにせよ、とにかく自分の体を動かす理由をさがして、何かなんでもいいから何かしようとせずにいられない。
列車の中にいるときだけは、何もできない。車で移動するのもと違う。誰かの車に乗るとき、おれは運転免許もないから左右確認なんて何をどう見たらいいかもなんにもわからないのになんとか運転手のためになろうとしたり、うやうやしく運転手に礼を言ったり、赤信号で止まったところを見計らって適当な話題を捻り出したり忙しい。
列車の場合、運転手の運転におれの存在は関係がないし、おれは運転のほんのわずかな部分にすら口出ししたり補助したりすることは決してできない。駅で止まるまで降ろしてくれと言うこともできない。ただ運ばれるがままに運ばれること以外何もできないのは、真の意味で何もしなくてよい場所は、おれにとっては列車だけなのである。
何もできないことがこんなにも心地よい。それに駆動部分の唸りと、レールをゆく音、窓から見える景色が、何もできないことの退屈な部分をごまかしてくれる。
何にも気を遣わず、ただぼんやりする。この時間がおそらく人間すべてに必要であろうと思うのだが、他の人はどうしているのだろうか。列車のない地域の人は、列車があっても、別にどこに行くでもないのに列車に乗ったりしない人は、一体どこでどのようにして、こうした時間を過ごしているのだろうか。
そうして、こういう時にこそ文章が書きたくなる。むしろ、文章を書くことに少しずつ親しんでいる今となっては、なんの目的もなく列車に乗ることがこの上ない楽しみになることすらある。
同じような趣味を持つ人の中には、喫茶店に行く人がある。おれは喫茶店ではだめなのである。何かといろいろ気になるからだ。もう一杯飲み物を頼もうかとかこの店はどれくらい人が居座ることを許容するのだろうかとか。よい店に行けば行くほどそうであるので、せめて行くならごくありふれたコーヒー1杯300円しないくらいのチェーン店がいい。しかしそうした店の多くは混んでいる。ゆっくりしたいのに混んでいる場所に行く道理はない。
そうして残されたおれの最後の安らぎの場所が、この、変な時間の適当な下り列車のグリーン車の片隅というわけだ。

満足して電車を降りる。あまり聞いたことのない駅に着いた。

この間、岩波文庫の棚を見て、島崎藤村の詩集がなんとなく目に入ったので買った。いま手元の手提げにはそれが入っている。
これまで詩に親しんだ覚えはあまりない。なんとなく、ああ島崎藤村という人がいた気がするなというのと、体系立った文章以外のものが読みたいような気がしたからだ。
驚くほど効用を感じた。効用と言ったのは、そういえば、この世にはこういう美しいものもあったな、と思い出した、あるいは、そういえばおれはかつて、こうした美しいものを見たことがあると思った。藤村の詩にはそういう力が確かにある。これを効用と言った。
藤村の詩には、といったが、読んだのはまだ詩集の冒頭の数篇だけである。そこのところはご勘弁願う。
そういえばそんなものがあった、そんな物語があった、そう気がつく。
先に申し上げたように、これといったことを特に何もできなかった休日の夕方、外に出てみると同じような効果がある。
西陽の中を歩くと一日が終わりに向かってゆくことがわかる。わかるというのは頭でわかるのではなく、感官全てでわかるのである。こうしておれは、一日には始まりと終わりがあることをまず思い出す。
行き交う人々の姿が目に入る。今家路に向かっている人、今夕飯の種を探している人、飲みに行く人飲みから帰る人などがいる。彼らはみな夕方の人の顔をしている。夕方の人の顔を見ることで、自分もだんだん夕方の人の顔になっていく。
朝の人よりも昼の人よりも夜の人よりも、夕方の人の顔というのは一番穏やかである。だから、なんとしても陽が沈む前に一度外に出て、夕方の人の顔を見る必要がある。一日のうちで最も穏やかな人間になる機会を逃さぬために。
「そういえば、今は夕方なのだった」
このただ一つの実感、日没前に外に出ることで得られるただ一つの、しかし無数の効用を持つこの実感こそが人を健康にする。
朝や昼を寝過ごしてもよい。夜を不健康に過ごしてもよい。しかし、夕方こそはきっちりと味わわれなければならない。

家に帰りつく。夕飯どきだが、さっきのラーメンのおかげで腹は減っていない。
まあいいか、と思って椅子に座る。ゲーム機が目に入る。部屋を歩く。洗濯機が、冷蔵庫が、流しが目に入る。
そのどれもに、おれは何かすることができる。

やはり安らげる場所はあのグリーン車の片隅なのであった。