タコノキ

実がなる

2月24日、25日

自分がいなければ困る人がいる、自分がいないことに不満を抱く人がいる、あるいはそのような状況、に、おれはおれ自身をよく追い込んでしまう。
おれは今できる全てをやろうとして身の回りのことすべてに関わりたがる。
周囲の人々の人手人足人数の勘定に常に入り込もうとし、おのれをただ奉仕するだけの存在となし、おのれ自身の望みを持つことをやめ、またさらにはおのれ自身望むかのように周囲に都合のいいことばかりを並べ立て語り、その語った内容にはおのれ自身の労力についてろくな勘定が含まれておらず、結果として周囲に振り回される事態を自ら招き自ら苦しみ自ら疲労する。

真面目で優しいのではない。

どうしてこんなことをしてしまうのかといえば、自分自身に何もする気がないからである。
自己自身を低く見て、自己自身を失い、ではおのれのこの体は何者かへ奉仕を行うためだけのものとせざるを得ず、奉仕以外の行為はすべて次の奉仕的行動のための休息であるだけとして日々を生きることに精進した結果である。
他者のために死ぬる者と、生きるために他者を殺す者では後者の方が圧倒的に健康である。
むろんこれは単なるカマシであるから、文字通り受け止めないでほしい。
自分の労力を正しく勘定し、特段の決意もなく拒絶の意などをなめらかに周囲の人々に伝えるには、己自身生きる希望をもちやりたいことをもち、世界との関わり方を己自ら模索していく覚悟が必要である。
死ぬとか殺すとか極端な言葉を使うのは、そうした覚悟をみずから強く希求してやまないからであろう。

人が人に負の感情を示すことは、それ自体は特段恐るべき事態でも、特別なことでもなんでもない。そう思ったからそう言っただけ、ただそれだけである。
などと、そんなふうに言えたらなんといいだろうか。
少し脱線する。
ちょっと難しいことにぶち当たると、そのこと自体を「なんでもないこと」として考えたがる、悪く言えば軽視したがる、ような言い草がどうも最近流行っていそうだ。
流行っていそうだし、おれもそんな超然たるありように憧れないこともない。
でもあんまり健康なあり方にはおれにはどうも思えない。
かといって、どうでもいいことだとかなんだとか言っても結局何も解決してないじゃん、ちゃんと現実と向き合おうね、なーんてつまらないことを言う気はない。
「なんでもないこと」と言いたがる、困難を困難として認めないことは、困難を感じる自分自身を軽視することであり、自分が自分にもたらす一切の作用を軽視することであり、自分自身などというものは存在せず、自分と呼ぶこの存在は、自分が外とどのように関わるかだけでできているという立場に立つことだからである。
ようは自分自身を軽視すること、「死ぬ気でやれ」なんてのも同じ立場からの発言であるのだけれど、それがどうも良くないような気がする。
自分というものはいくらでも理性の操れる範疇、言葉とか、勉学とかで、好きなように構成することができる、みたいな。なんだか社会的成功を突然望み始めたような人は、そんな感じのことを言いたがる。
ペラい言い方をすれば、「あなたは何にでもなれる」みたいな考え方だけれど、これはそこに存在する自己を完全に無視している。身体は魂の器である、肉体の軛から解放されよう、みたいなのとだいたい言っていることは同じだ。
しかも、そうした乱暴さにはあまり気が付かれることなく、若い人たち、それもおれよりずっと年下の人たちとかに、結構平気でなんの悪気もなくこうした言葉を向ける人は多い。
無限の可能性とかいう謳い文句は、単に、若い子が何者になるかまだわからない、という、単に観測されていない、というだけの意味で使われるのだけが正しいのであって、何の石を与えるかで進化先が変化するイーブイみたいな意味で使われるべきではない。なぜならそれは大間違い、大勘違い以外の何者でもないから。
「死ぬ気でやれ」も、「いったん自己を徹底的に無視して、自分の身体も無視して、おまえの外側に見えることに己を活用することだけを考えてみよ」というふうに書き下すことができると思う。
そういえば、「死の欲動」という言葉がある。「死ぬ気でやれ」などと人に言わはる人がいつもフロイトのことを知っているかどうかといえばそんなことはないけれど、意味するところは偶然にも近いものがある気がする。
かなり脱線した。そもそも線路がどこかもわかっていないが。
困難を困難と認めない態度、困難そのものをどうでもいいこととか言い出すのはよくないという話をしていたのだったけど、じゃあどうしろと。いや、おれにもわかりません。
けどいつもいつでも困難を真正面から認めて、困難に立ち向かうべきかといわれたら別にそうでもない。
立ち向かう必要の全然ない困難だってある。そうした時に人は困難を遠ざけたり大きく迂回したり突き飛ばしたりするわけだが、そうやって困難をないがしろにするのだって、自己自身の反応であるのだから、何も殊更に、わたしは困難をものともしませんでした、なぜならそんなのはどうでもよかったからです、と、超然存在アピールをする必要もないわけだ。


さっきから、何か、言いたいことがある。
それはもうちょっと壮大で、一言では言えない話である。
何を言いたいかはよくわからないが、それでもこうしてテキストを弄ぶことで、徐々に言いたいことに接近していく。


人には人を目の前から排除する力がある。近寄るなと言い切り態度で示す力がある。お前が気に入らないと伝えるための力がある。
こうした力は使い慣れていないと暴力沙汰になったり、ひどい時には人を死なせてしまうことがあるのだろうが、多くの場合は健康なただの「やりとり」として終わる。
だれもかれもがそばにいて嬉しい人などない。そばにいてほしい人と、いて欲しくない人がいる。
そうして、いて欲しくない人、というものに、おれは最近出会っていない。それは周囲に恵まれているのよ、といわれるかもしれない。
が、おれに言わせてみれば、たぶんおれ自身のそうした感覚が麻痺しているか、未発達であるか、どちらかなのではないかと思う。
博愛というものを勘違いし、何に対しても不満、悪態、皮肉等々を述べないことを美徳として、十代後半から生きているような気がする。

ようは、こうである。

かつておれは気に入らないものをすら受け入れようと試みた。けれどもそうできなかった(たぶん、十代の早いうちにこれを諦めている)ので、今度は自ら遠ざかることにした。気に入らないもののニオイを嗅ぎつけたら、どれほどそれ以外のものが自分にとって良いものであっても、素早くその場から遠ざかる習慣が身についた。
それもこれも、おれはやがて敵意なり、害意なり、悪意なりを発散する機会を永遠に手放さんと自ら試みているからである。
その最中におれはあった。なんとも涙ぐましい努力、潔癖症、哀れな試みである。
気に入らないものを排除しようとする力、排除しようにもできないからせめて文句くらいは述べてやろうという心の動き、そうした一切を抑圧しておよそ十数年を生きているような気がする。
それが外から見れば良い姿であっても、抑圧は抑圧である。体にいいはずもない。

自分には仲の悪い夫婦というのが理解できない。仲が悪いなら別れればいいのにと思う。
しかし、ただ対等に、単に仲が悪いだけであれば、その関係は続けていくべきなのだろう。考えてもみれば、互いが互いに思うところを述べられる関係が不健全であるはずがない。諍いあっていてもそれは自然なエネルギーの発露であって、両者間に自然な作用がはたらいているだけなのであり、それを上回る健康的な生活などないのである。