タコノキ

実がなる

『暇と退屈の倫理学』からの連想

本来的なものなど存在しないと言って、十把一絡げに疎外そのものをも否定してしまうなら、結局そこに生まれるのは現状追認の思想である。疎外を否定した以上、どんな思想も相対的に位置付けられてしまうからだ。

國分功一郎 『暇と退屈の倫理学』
本文の引用は全てこの本からである。

疎外ということを考える時、人間の自然な傾向として、ではわれわれはどこに帰るべきなのか?われわれはどこから疎外され、そしてどこへ帰るべきなのかということを考えたがる。この傾向はごく一般的であり、そして強烈だ。
どこかから疎外されているが故に今があり、その今が苦しいのならば、その「今」でないどこかへ帰ることが最も素敵で根本的な解決法に思われるからである。
「どうして自分は日々、こんなことをしなければならないのか?」
そう感じてやまずイライラしたり、悲しんだりする時、人は疎外を感じている。こんなこと、をしていない自分が本来の自分であり、そこから自分は疎外されていると感じているのだ。

本来の自分が明確に想起される時。それはたとえば、学生時代をしのぶ勤め人。もっと若い人なら、地元の中学を懐かしく思う高校生でもいい。小学生の頃の夏休みを想う2ch時代のアスキーアートは有名だ。このような場合においては、帰りたい場所と時点が具体的に存在する。
けれども、これが「本来的」かというとどうだろう。人は本来学生であったわけではないだろうし、夏休みは人に本来的に備わった期間でもないだろう。だから、このような、帰りたい場所が明らかに過去であり、単に昔に戻りたい感情は深刻な悲劇になりえない。だから大したことがないというわけではないけれど、こうした気分は少なくとも正体の明らかなものとして自分の中で判別することができる。
大して、「本来的」なものを求めてしまうような気分。「本来」自分はこうであり、その状態を目指さなければ、帰らなければならない。失った何かを取り戻さなければならないとか、自分の中に眠ったままの本来性を発見しなければならないとか、こうした望みにとらわれてしまうのはかなり危険だ。
『暇と退屈の倫理学』では、人間全体としての本来性という意味で本来性という言葉を用い、その危険性を指摘しているけれど、ごく個人的な本来性を求める気持ちも同様に危険であるとおれは思う。
なぜなら、個人的な本来性というのも、一旦イメージされると強制力を持つからだ。
自分が自分に対し、自分のありようを強制し始める。

…本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。<本来的なもの>が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということである。

これをごく個人的な本来性への憧れに置き換えて考えると、本来的なものに憧れる自分自身が、自分自身を疎外し始めるということになる。その典型的なものは思春期の苦しみであり、また、大人になって働き始めてからの苦しみであるのではないか。
本当の自分はどこにあるのか / どうして自分は日々こんなことをしているのか。
これらはどちらも、個人的な本来性への憧れからくる悩みなのだ。

本来性の危険は十分にわかった。では、個人的な本来性に憧れるのをやめよう。自分は何からも疎外されてなどいないし、そもそも疎外など存在しないのだ。
そう考えると生じてくるのはなんであったか?
そう、冒頭の引用の通り、「現状追認の思想」が生じ、それらはすべて常に「相対的に位置付けられる」ことになるのだ。
ようするに、なんでもアリということだ。現状について考えられた思想であれば、それらは他の思想と相対的に位置づけることができ、どんなものであれ、どこがしかに場所を占めることができる。
これはまさしく現代の病気的状態にほかならない。あらゆる思想がアリである。たとえ常識的に考えてあり得なかったり、極めて反社会的、非人道的でありさえしたとしても、それらは既存の何かのカウンターとして常に自分のどこかに居場所を占めることができる。
何かを絶対的に否定することもできなければ、絶対的に肯定することもできない。
何が正解かわからない。だから、その場その場の日和見で行動を決めるしかない。
社会の規範など自分の中では相対的なもののひとつにすぎない。それらに上下、正解も不正解もないのだから、社会のルールを破っても自分は自分自身になんらの負い目も感じない。たとえ、法律で裁かれるようなことになったとしても。
というのは極端な例だが、こうした心情の片鱗は現代人のなかにひろく存在している。
個人的心理のなかに疎外の一切ない状態とは、こういうことなのではないだろうか。

ある悲惨な状況のなかで人が「これは何か違う」「こういう状態にあるべきではない」と感じるのは当然のことである。そう感じられたならその原因を究明し、それを改善するよう試みるべきである。疎外の概念はそれを可能にする。

ごく当たり前なことを述べている。
繰り返すが、いま、『暇と退屈の倫理学』で議論されている、人類全体の本来性を、この文章では個人が自分に対して本来性を求める現象に置き換えて考えているのだった。
人間は自分の置かれている状況を悲惨な状況であると考えることがある。ことがある、というか、なんらかの悩みの中にある人間はそう考えるものだ。そして、人間はいつもなんらかの悩みの中にある。
自らがそのような悲惨な状況にあると考え、そこから脱却せねばと考えることをやめてはならない。それは疎外という概念を投げ捨て、現状追認に甘んじ、日和見に生きることを宣言し、己の中になんらの価値判断の基準を設けず、ついには極めて危うい生き方を歩み始めることになるからだ。
ではこの個人的悲惨から脱却するにはどうすればよいのか?と考えるとき、本来性を頼ってはならない。ひとたび本来性の強制力に引きずられれば、自分は自分を排除し始める。現在の自分の在り方を、自分は全面的に否定し始めるのだ。これ以上の苦しみはない。
疎外は確かに存在する。己は何かから疎外されている。そこを認めつつ、自分の在り方を創造せねばならない。

『暇と退屈の倫理学』の中では、マルクスの「資本論」で述べている『つまらないくらい常識的な』言説について触れている。
自由の王国は、労働日の短縮を根本条件として花開くのだと。
詳しく意味するところは引用元の本を読んでいただくとして、もしかすると、個人の悲惨を脱するきっかけも、そのような「つまらないくらい常識的なもの」であったりするのかもしれない。そうは思わないだろうか。

そんなことをこの本を読みながら考えた。手前勝手な引用をご容赦願いたい。
おれは今自分自身の陥っている、現代の社会的にごくありふれた個人的悲惨について大いに思い、立ち向かい、解決しようと日々戦っている。
ごくありふれた悲惨は、ごくありふれているからといって存在しないものとみなして良いわけではない。みんなそうだからといって、必死に解決を試みない理由にはならない。
幸いにも、おれの悲惨は過去数百年来にわたりごくありふれているようなので、哲学の名著やその研究者をあたってみるとたくさんの示唆が得られ、感動さえする。
これが哲学書を読む喜びである。