タコノキ

実がなる

『暇と退屈の倫理学』からの連想(二)〜「何者か」について

人は何かから疎外されている。その結果、「どうして自分がこんなことを?」と感じたりする。その疎外を、「本来的な」何かへの回帰で埋めようとするのは、安易で自然で強烈な誘惑なのであった。
しかしそうした本来的なものの存在を仮定した瞬間、その状態にない自分を、自分自身が排除し始める。この状態こそ本来性が個人にもたらす最大の苦しみである。

『暇と退屈の倫理学』においては、ルソーのいう人間の自然状態の話が登場する。社会以前の自然状態において、人はみな心穏やかに生きているというこの説は、「自然に帰れ」という文句とともに後世の人間にもてはやされることとなる。
しかしルソー自身はこの自然状態を「これまでも存在しなかったし、いまも存在しないし、これからも存在することはない」としているのだった。
ルソーは別に人類に悲観してそう言っているのではない。
ではなんのためにこの自然状態という概念を置いたのか。それはこういうわけだった。

ルソーの目論見は、私たちが当然だ、当たり前だと思っている社会状態を遠くから眺めてみることにある。

人間に対し「自然に帰れ」と主張したいわけでは全くない。そもそもルソーは「自然に帰れ」など一言も言っていない。
ルソーは思索の都合により、いわば仮想の基点、「モデル」を必要としただけだった。それが社会以前の人間の自然状態という概念なのだった。
いち学者が思索の踏み台として用意した単なるモデルが、まるで人類全体が回帰するべき目標のように誤解されてきたわけである。
それほどまでに、本来性と名のつくものは魅力的なのである。

さて、個人の事情においても、本来性という概念は強烈な魅力を発している。
「本来自分はこうでない / こうである」。こうした決定を自分自身に下すことを皆が望んでいる。またそればかりでなく、他者に「あなたはこうである」と決定されることをも望んでいる人も少なくない。
自己の疎外の特効薬として、本来性が望まれているのだ。先に申した通りこれは安易で危険な欲望である。なぜなら、本来性が与えられた瞬間、自己は、本来性に属さない現在の自己を排除し始めるからだった。

本来性に誘惑されている様子の表現として典型的なものは、「何者かになりたい / なるべき」という言葉だろう。昨今なにかと肯定的にも否定的にも語られるこの言葉の正体は、本来性を外から借りてきたいという願望である。
そして俗に願望される本来性というのは、全てこの類の「何者か」にすぎないのである。
しかし、本来性とは文字通り、もともと、自分が、どのようなものであったかを指し示す言葉であるから、本来性のつもりで「何者か」を求めるというのはおかしく聞こえるかもしれない。
では少し考えてみてほしい。「本来自分がどのようなものであったか」など、どうして決めることができるだろう?
かつて自分がどのようなものだったか、なら、わかる。過去のある時点において、自分がどのようであったか。しかしその姿は本来的だろうか?もちろん、否である。
過去の自分が本来的であるとするならば、過去のある時点の自分よりもさらに過去の自分がより本来的であり、さらに過去の自分よりも、もっと前の自分がより本来的であり……と遡らなければならない。
こうして生まれた瞬間まで遡るわけだが、果たして、生まれた瞬間の自分を本来的といえるだろうか?言葉はおろか呼吸すらままならない、そんな時の自分のどこに、疎外の苦しみを癒してくれるようなものが見出せるだろう?
つまり、自己の本来性を過去の自分に求めることはできない。
ではこの、疎外の苦しみへの特効薬となりえる本来性を人々はどこに求めるだろうか。
本来性を求めるべき先などどこにもないのだ。もし、言葉通りに本来を示すものがあるとしたら、それは過去の自分でしかありえない。しかし、過去の自分はなんらの本来性をも示してはくれない。最も本来的であるはずの赤子の自分には、なんらの本来性をも見出すことができない。
そうしたとき、どうなるか。
なんらかの方法で、手持ちの材料から本来性のようなものを捏造するほかはなくなるのである。
そして、捏造された本来性は本来性ではない。さらにそれは自己でもない。漠然と、「何か」でしかない。
本来性を標榜する何か。対象が人であるからすなわち何者か、である。
疎外の苦しみの中から発せられたうわごとのようなもの、それが「何者か」なのだ。
望むべき本来性はどこにも見当たらない。しかし本来性を得られなければ自分は疎外されたままだと信じている。何か本来性がほしい。
そうした決して正しく満たされることのない願望が「何者かになりたい」なのだ。

しかし「何者かになりたい」と実際に口にする人はそういない。この言葉がどれだけ漠然としており、どれだけ馬鹿にされるかをわかっているからだ。
また、「何者かになりたい」と自覚して願う人もそういない。そのような、疎外の苦しみから発せられた願いを自分が抱えていると自覚できるのは珍しい。
本来性への回帰の願望は、次のような形で現れる。
今の自分ではダメだ。あのようにならねばならない。自分はこうあるべきだ。優れた自分はこのような姿である。
「何者かになりたい」願いは常に、個別具体的な目標の覆面と、自己否定の枷を伴っているのだ。
そしてこの覆面は現代社会によってはめられている。さらに、自己否定の枷がそれを外すことを許さない。
現代の消費社会の論理は、疎外から生じる、あてどない本来性への願望に、望みどおりの覆面を、かりそめの目標を与える。そしてその覆面の絵柄の意味通りに人々は動くようになる。

少々話が具体性を欠いてきた。夜も遅い。今日はここまでにする。