タコノキ

実がなる

生活と未来と数年前の自分について

何か書こうと思った。

金を使うことについて考えていた。
最近は毎月いくら貯金に回して、いくら自由に使えて、そうすると預金残高がいくらになって、みたいなことを考えるようになった。
昔、ほんの数年前はこんなことをまったく考えなかった。
すごい高給取りで、先のことなど心配する必要がないとかでは全くない。
単に考える気がなかった。
周辺の友達の話を聞くとそれはどうもだいぶおかしいらしい。
思うに、こうだ。
割とみんなきちんと未来のことを考えているか、それとも、俺ほど直近の刺激を希求しないか、どちらかだ。
そしておそらく後者だろうという考えが俺の中では有力である。

おれは退屈に耐えかねて、気晴らしを求め過ぎている。気晴らしには金がかかる。
目の前の全てを忘れさせてくれるようなものを、おれはいつも街の中で探している。知らない飲み屋に入って回るのも、たいして吸えもしないのにシーシャ屋に入ったりするのも、ちょっと人には言えない楽しみに身を投じたりするのも、理由は全てそれである。
退屈に耐えかねる。
日々の生活の中で退屈を強く感じ、それを消しとばすようなものをいつも探している。
ほんの数年前までそうであった。

では今どうかというと、退屈を感じないわけではない。たぶん退屈の総量も減ってはいない。
しかし何も変わっていないのかというと、そうでもない。数年前のおれと今のおれを比べたとき、好ましい変化がいくつかある。
まず頻繁に料理をするようになった。数年前のおれは手間を惜しみ、あまり手のいる料理をしなかった。最低限の手数、いや、最低限以下の手数で料理らしきものをしていた。
具体的には一切包丁を使わず、ひたすらなんらかの味の汁で野菜と肉を煮ることだけを考えていた。
今のおれに言わせてみれば、そんなことならいっそ料理などしない方がマシである。
何せ楽しくない。工夫をしようにもできることが極度に制限されている。ハサミで切れるものと、切らなくてもいいものしか使えないし、調理法も煮る一択である。
何も面白くない。まずいものができるわけではないが、極めてつまらない。
ではなぜそれでも自分で飯を用意していたのかといえば、薄い味のものが食いたかったからである。
店で食い物を買ってきて食べる、あるいは外で飯を食うとき、薄い味のものを食べることほど困難なことはない。
うまいものはいくらでもある。まずいものもいくらでもあるだろう。けれども、薄い味付けのものは外には全然少ないのである。
おれは濃い味のものを毎食食う気はしなかった。一日に一回くらい、薄い味のものを食いたかった。だから仕方なく自分で用意するのだが、そこで最低限の手間すら惜しんだのがよくない。
結果として、料理の作業は自ら課した制限のせいでつまらなくなり、食事は食感にバリエーションがなくつまらないものになり、片付けは単に面倒なだけであった。
ようは、自宅での食事という生活上の行為に一切の楽しみを見出そうとしなかった。
なぜか。
それは、真に大事なことは食事以外にあると考えていたからに違いない。
より正確に言えば、「真に大事なこと」と比べれば食事は些事であると思っていた。

ではいったい、その、「真に大事なこと」とはなんであったのか。
これは断言するが、そんなものがあったわけではない。ただ、こう考えていたに過ぎない。
この人生のどこかには未だ見も知らぬ真に大事なことがあるに違いない。おれはその真に大事なことを、鉱山から宝石を掘り出すように見つけなければならない。
ふたたび、今のおれに言わせてみれば、てんで間違っている。
この考えの問題は、だいたい以下の点に列挙されるであろう。

  • 「真に大事なこと」が、突然現れると信じている。
  • 「真に大事なこと」が、外部の既成の品であるように考えている。
  • 「真に大事なこと」が、誰の目から見ても客観的価値の明らかな状態を伴うものと思っている。
  • 人生において一意に「真に大事なこと」が定まると信じている。

いま列挙した問題点について詳しく述べようとは思わない。これらが問題であることは、誰の目にも明らかであり、世間に十分に流布された概念によって正当に批判可能であるからである。
しかし、世間に広く流通する概念によって十分に批判されるべき考えであるからこそ、こうした考えを自分だけは大事にしなければ、という感情が生じうるものかもしれない。

さて、おれはなんの話から出発したのだったか。
そうだ、料理をしていたのにそれを楽しみとしようとしなかったという話をしていた。ずいぶん話が脱線したような気がするが、しかし一概に脱線というには、おれの中では繋がりがあり、そうとも言い切れない。
目の前のこと、たとえば料理、を大事にしようとしないことは、目の前にないものを大事にしようとする試みと表裏一体なのではないかと思うわけであるのだ。そこに、今話したことのおれなりの理路がある。
目の前にないものを大事にする、というこの少々矛盾を感じなくもない言い回しは、先に列挙した「真に大事なもの」を探し求める姿勢のことを言っている。
そうした姿勢が生活の楽しみを奪っていく。
あるいは、その逆もあるかもしれない。
目の前の生活を大事にしないことで、だんだん、己の姿勢は地に足つかなくなり、何処ともしれぬ「真に大事なもの」を探し求めるようになる、そんな機序もあるかもしれない。

今のおれの軸足は家事にある。日々料理をし、洗濯をし、掃除をする。そこにおれの重心がある。おれは望んでそこに立っている。
これがおれの健康に寄与していることは疑うべくもない。家事は救いである。
では、どうだろう。
もはやおれは、遠く何かを夢見ることをやめてしまったのだろうか?
どうかといえば、そうでもないと思う。
それが、毎月の預金残高を気にするようになったし、毎月増やしていこうという変化に現れているだろう。
少なくともおれは、来月の未来を地続きに、金という数字を頼りに考えるようになったのである。
未来を考えるとは途方もないことであるべきではない。その頼りとして最も簡単で、最も身近なもの、それが毎月の預金残高の変動なのであると思う。

いま、おれは預金残高をできるだけ増やしたいと切に思っている。
皆が当たり前のように考えることを、おれはようやく切に思うようになった。
そのためになるべく健康でいて、なるべく消費に駆られることなく、なるべく金を稼ぎたいと思っている。
これが、たぶん、現代の人間にとって最も健康な未来の考え方であるのだろう。
もう少し遡ってもいいかも知れない。近代以降の人間の、最も健康なあり方とは、なるべく預金残高を増やすことであるのかもしれない。

ここまで読んでくれたのならわかると思うが、おれは金が全てを解決するなどといっているのではない。
手探りで未来を考える時、その手元にある一本のロープ、それが預金残高であろうと言っている。
預金残高がすべてに先立つのではない。未来を考えようとするその姿勢が先に立つのである。そうして、未来を考えるとは「真に大事なもの」を探し求めることではない。おれの場合は日々料理をし、掃除をし、洗濯をすることで、はじめて未来を手探りすることができる。
未来よりも日々の家事が、おれの場合はなによりも先に立つのである。