タコノキ

実がなる

耽溺行 入間市編

儚く美しげなものにいつしか興味がなくなった。
おれは強かなものばかり好むようになった。
それは自ら強かになるためだろうか。
儚く美しげな気分も、たまには思い出すべきである。
そうして、思い出す程度にすべきである。

雨が降っている。かまわず歩く。外を歩くことの楽しみは少しも損なわれない。
思い出すことがある。忘れることがある。思い出す物事と忘れる物事は、生活を営むときのそれらとは真逆になる。
日び覚えていることを忘れる。日々忘れていることを思い出す。
縁のない土地を歩くとき、行われることである。

うちには糠床がある。ぬかどこ。糠床は毎日ひっくり返すように混ぜ返すことで、なんだか良い感じに保たれるのだという。
天地を返すように反対にする。すると、いい感じになる。
縁のない土地をあてもなく歩くときに頭の中がひっくり返るのも、だいたい同じ作用ではないか。
旅行の楽しみは旅行先に行くことではない。頭の中をひっくり返すことである。

頭の中をひっくり返したいだけなら、どこへ行っても構わない。ただ、日常の生活圏から遠く離れる、どう頑張っても歩いては戻れぬほどに遠ざかるだけで良い。
ひっくり返すには裏側がなければいけない。
裏側がなんであったかをすら、自分の中から消し去ってはならないのである。
思い出すべきものを人は常に持っていなければならない。
さもなければ、糠床を混ぜ返すことすらままならないのである。

思い出すべきもののある人はどこへ行っても頭の中を混ぜ返すことができ、頭の糠床をいい感じに保つことができる。
こう言ってよければ、おれは旅行先で、旅行先のものそれ自体が楽しかったことは一度もない。いつもと違う場所にいて、いつもと違うものに囲まれている自分自身が面白いのであって、旅先そのものを楽しんだことは一度もないのである。
ゆえに、おれはどこへ行ってもいい。遠くでありさえすればどこへ行ってもいい。なぜなら、自分自身をいつもと違う場所に置ければ、それだけで楽しいからである。

この楽しみは決して人と共有できるものではない。
ゆえに俺は一人でどこか遠くへ出かけなければならない。そうしなければ頭の中を混ぜ返す楽しみを十分に味わうことはできないからだ。
誰かと出かけるのは、その目的がないとき、頭の中を混ぜ返さずとも良い時に限る。

おれが一人で遠くへ行くのはだいたいそんな理由である。

そうしてなんだか、この、入間という街は、一人で歩くのにとてもちょうどいいのであった。

四月二十一日の埼玉県入間市は曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。
西武線特急ラビューからホームに降りると雨の匂いが漂っている。
改札階への階段へ向かって歩き出すと、右手にひらけた駐輪場となんもない土地が見える。
ここはおれがこの入間市駅へ通うようになって五年来ずっとこのままだ。たぶん、やがて何かが経つのであろうが、よそ者のおれは永久にこのままであって欲しいと思う。眺めが良いからだ。
京都のいずこかの、古い建物が後世にわたって残っていて欲しいなどと無神経な観光客が思うのと同じだ。
暮らしの場ではないから、変わらないことを願う。愛着ある旅先とは、常に同じでなければならない。
それは思い出であり、自分の頭の糠床にまた、「あのとき」と同じように手を入れるためのきっかけであるからだ。

ホームから改札階へ上がると、二つ出口がある。
あの眺めのよいひらけた駐輪場へ出る出口と、そうでない方へ出る出口だ。
駅ビルは結構大きい。そこに商業施設が入っている。
この商業施設に十分な人の出入りがあるのを、おれはお目にかかったことがない。
特急ラビューの隣の停車駅、所沢駅の商業施設よりもはるかに客の出入りが少ない。
経営は大丈夫なのだろうかと思うが、まあ、かの西武グループの施設であるから、そう簡単になくなったりはしないだろう。
ここに入ると、小学生のころ、地元の小さなデパートで遊んだ時のことを思い出す。
食料品のフロア以外はだいたい閑古鳥で、おれはだいたい布団売り場に行って、片端から布団の隙間に手を突っ込んだりしていた。
こうして、おれはよそからやってきて、買い物もしないのに商業施設に入り、勝手に思い出に浸るのである。
観光とは実に迷惑だ。おのおのが、暮らしもしないのに、そこに思い出の楔を打ち込みたがる。その楔がなまじ金になったりすることがあるものだから、観光なるものが産業として成立してしまう。
その楔は、暮らす者からすれば単に邪魔である。しかし街は金の儲かる方向に変容してゆく。街がそのように変容すると、かつての観光客はどう思うか。
「ここもすっかり観光地化されてしまった」
そんなことを言って残念がったりする。全くもって身勝手だ。観光客などろくなものではない。
たとえば、道端に瓦屋根の民家があるとする。現代的な屋根と違って見栄えのするそれを見かけて面白いと思う。
やがて家主の意向ソーラーパネルを置くことになった。果たして瓦屋根の上にはソーラーパネルが置かれた。傍目に美しかった曲線美は損なわれた。
これを「残念」と思うのがいかに手前勝手なことか。街並みを観光するとは、常にこのような勝手さを大いに含んでいるのである。
より過激なことを言えば、街中では観光客は観光客であることを隠すべきである。
私は観光客であるなどと大手を振るのは恥ずべきことである。当たり前だが街は住まうもののものであり、観光客のためのものではないからだ。
よそ者はよそ者らしく、こっそりやっていなければならない。そうしてこっそりやっているよそ者であるところの観光客を、街の人間はそっとしておいてやらねばならない。
街の暮らしがありながら、観光客を大歓迎しているような街をおれは好ましく思わない。

おそらくおれも、この、所沢と比べてちょっと寂しい感じの駅ビルの商業施設にいい店がたくさん入り、大賑わいになったら、
「この施設もすっかり賑わうようになってしまった。昔のいまいち人のいない感じが良かったのに」
そんなことを思うのだろう。
観光客は、そんなものである。そんなものでしかあり得ないのだ。
そして俺は、入間市に暮らしていない限り、そういう目でしか入間市を見られないのである。

駅の外に出る。東京よりはるかに広々した歩道を歩くのは単純に爽快である。緑も多く、植え込みには目を楽しませる工夫が凝らされている。
線路をきた方向から遡るように広い道を歩いていくと、稲荷山公園という駅に出る。
ここには県営の大きな公園がある。傾斜と芝生が綺麗な、よくできた公園である。
そのそばに市営の体育館的な施設がある。バスロータリーが併設されており、そこから遠くに航空自衛隊の基地施設が見える。
たまに、見慣れない飛行機が飛び立つのがみられる。
県営市営の公共施設、あるいは基地施設はどれも見るからに堅牢で、角ばっていて、綺麗に保たれている。無骨でしっかりした建物を眺めていると気分が良くなる。
ここでいわゆる夕焼けチャイム、よいこはおうちへ帰りましょう的な放送を聴いたことがある。これがなんとも良い。メロディが良いのだ。ちょっと泣きそうになるから、聴いてほしい。日没時刻によると思うが、だいたい17時半とか18時に鳴る。
仕事の午後休でわざわざここまできて、ここにだけ来て、缶コーヒー買って、夕陽を見ながらチャイムを聴いて満足して帰ったことがある。
それくらい、チャイムのメロディが良い。感極まる。
今日はチャイムを聴き損ねた。思い出しながら書いていると、ああ聴いてから帰ればよかったなあと思う。