タコノキ

実がなる

通勤電車より

朝目覚めて高速で思考がめぐる。巡りはするが文字通りめぐるだけであり、表に出ることはない。表に出そうとすればそれはただ不可解なだけであり、後から何を考えていたのか思い出すこともできない。
こうした思考は脳細胞の遊戯とでもいうべきものであり、身体を使わない、ただ軽々として素早いだけの何ら意味を持たないものである。
思考はめぐる限りめぐっているだけである。だからこうして書いておく。

朝起きてうんざりする。日々戦々恐々して、なんとか安心して帰れるように仕事を頑張る。
次の日。同じことの繰り返し。
会社勤めは普通だろうか。普通なことなどない。いったいこの世に普通に平然とこなせることなど何もない。
何もないだろうか。
平然と生きることはできないと言っているのだろうか。どんな道を選んだとて、大変な目に遭うと言っているのだろうか。
自分の力で歩くことができる保証を得ることが、人生における最大の安心である。それは、どこかに安逸な道があるとするのではなく、人は自らの人生に無限の効力をもつのであるから、常に自分の身で歩く方法を探し求めることができるということである。
そんな面倒なことをせずとも、日々それなりの苦痛に耐えていれば生きていられるのだが、苦痛は苦痛である。味わいたいはずもない。

眠くて四肢の感覚がうすい
開けっぱなしのビスケットを忘れた

一次のものに触れた自分が生み出した二次生成物ほど、おのれにとって確かなものはない。すべておのれが触れるものは一次的であるべきである。

つまりは、だれかに急かされているのが気に入らないのだ。常に。
自分を自分で動かしてやらなければ、自分で自分の力を振るってやらなければ、永遠にこの苦痛から逃れることはできない。
いったいどうしておれはこんなに必死に駆けずり回っているのだろう。強いられたことをなぜ、いや、誰かがそうして欲しいと言っているだけのことでなぜこんなに自分を締めあげているのか。
やらなければいけないわけではない。
そこにあり、誰かにやれと言われたからやっている。しかし、誰もやれとは言っていない。それは、「誰か」が内面化されているということだろう。

穏やかにあり、何ものにも追い立てられず、己の暮らしと周囲の愛しい人たちのことだけを四六時中考えて、大勢の人間とは決して関わらず、好きなように寝て、好きなように起きる。
心中は常に身近なことでいっぱいであり、遠く離れたもののことや、未来のこと、過去のこと、他人のことなど考えたこともない。
己の生活上の雑事はすべて己で行い、真に一人で生きることも可能である。
いついかなる時もそのようにあり、そうでないときなど片時もなく、常に安寧の中にありたいと願う。
そうして、そうならないことを日々嘆いている。
随分過ぎたことを望むものだと呆れる声がある。それはおれの中からも聞こえる。おそらくこうしたことを願うとき、おれは人間の幸福についてなにか取り違えているのかもしれない。
そうしたことがなぜ起きるのか、それは、今の反対こそが真の幸福だと思いたいからである。今が気に入らないから、今の反対側を求めるのである。
冒頭のおれの願いを対極に読み替えてみるといい。多くの人間がまさに今直面しているあり方が現れるはずである。
人々は真に大切な己の精神と語らう時間さえ十分にもうけることができず、やがて個々の精神は薄れてゆき、個と個は群衆に成り果てる。
群衆の中で絶望した者はやがて自らの破滅を求めるようになり、日々、唐突に訪れるかもしれない物理的、あるいは内心的な破滅的事象を祈り求める。己自らそう簡単には真に破滅などしないことを悟りつつ、突然の崩落を心中どこかで常に願う者が少なくない。

成長という言葉を聞くたびに怖気がたつ。現代を生きるそれなりに若いおれのような人が最も多く成長という言葉を聞く場所は、たぶん就活と、そのあとの仕事の場であろう。そうした場所で幾度も繰り返し耳にするものだから、成長と言われるのも嫌になり、ましてや自分から成長など求めることはなくなる。
こうした「成長」という言葉の用例が、かなり限定的な意味であることを忘れるくらいである。
つまり、仕事上、いわゆる「社会人」として、あるいはなにかの専門家として望ましい変化を遂げることを、「成長」と呼んでいる。こうした限定的な意味で、おれの嫌う人々は日々「成長」と口にする。
しかしたとえば、どうだろう。
庭に植物を植えていた。いつのまにか蔓が壁を這うようになった。見目よろしくないし、邪魔である。家を這い回っていたが、なんとなく殺さずにおいた蜘蛛が大きくなった。これは成長である。より広義の成長である。
つまるところ他者から見て望ましい成長とは、成長の一側面、ないしは成長という言葉の恣意的な用法であるに過ぎない。
成長とはより広範な意味でみれば、ただなるようになり、なるように大きくなっただけのことをいう。
人は成長する。これは、広範な意味でそう言っている。より大きくなる。ただし、それが誰かにとって望ましいかどうかはその誰かさん次第であって、望ましくなくともより大きく、高くなったのであればそれは成長である。
成長しなくてもよい、みたいな立場が、社会に対する一つのカウンターとして存在する。こうした立場の人々は、おそらく社会に重用される人間になどならなくてよいと言っているのだろうと推察する。
しかしここで、成長という言葉を使ってしまうのはどうか。それは、より広範な、社会など別に関係のない意味での成長も妨げてしまわないだろうか。ここで成長と言ってしまうのは、言葉のスコープが少し大き過ぎはしないだろうか。
社会が求める成長に対してケッくだらねえというならば、常にそちらの方を見てケッと言わねばならない。
個人の立場から成長そのものを否定する理由はない。
社会に求められるありかたであろうとする事が奨励される("学び直し"などという言葉を行政は使う)現状に異議を唱えるさい、そうした立場を取りたい時、「成長」というワードを槍玉にあげる事で、本来否定する気のなかった、個人が、個人として、誰のためでもなくより大きく高いあり方を目指すことをもやんわりと敬遠させてしまうことがありはしないか。
成長という言葉がいつの間にか社会の中に包摂されてしまったと言えるのかもしれない。成長に指向性をもたせるのは、成長そのものとは別の努力である。本来成長に指向性はない。
松の木の枝ぶりは好き勝手に伸びていく。それを邸宅にふさわしい姿に整えるのは、松の木の都合ではなく、庭師と主人の都合である。
では、己の中に庭師をもつべきだろうか。これについておれはなんともいえない。