タコノキ

実がなる

文章と運動(3983字)

文章で何かを喜ぶことは思ったよりも難しい。すごい、やったー、みたいなことを書こうとすると、もうそれだけで終わってしまう。
おれが捻くれ者なのではなくて、文章を書くというのはだいたいそういう方向に偏っていくものなのだろう。誰かを褒めるより悪口を書く方が簡単だ。褒め言葉は短くて素直な方が印象がいいけれど、悪口は長ったらしくて巧妙なほど優れている。
誰かを励ますための文章を書くとする。たとえば、学校の卒業生に向けてメッセージを寄せるとかだ。こういうときもアンタはエラい、学校生活よく頑張った、感動した、みたいなことをただ述べるだけでは別にあんまりありがたみがないだろう、面白くもないだろうな、と思ってしまうのは、やはりおれが捻くれ者だからだろうか。
こういうときはひとつ、社会に蔓延るなんらかの罠、毎日やってくる苦難等々について悪し様に述べてから、いわば学生それ以外のものに対する悪口を書き並べてから、最後に、学生に向けた言葉を述べるほうが面白いし、感動さえしてくれるかもしれない。

なんらかのありようについて悪く言ってから、本当に述べたいそれ以外のものについて話をする。すると、自然とあとに述べたものを良く描くことになるし、物語的にも上等で、意図するところはより伝えやすくなるかもしれない。
「褒めたいものがあるだけなのに、それ以外のものをサゲるのはダサいぜ」という意見もあるけれど、まあ、自然に人が文章を書くと、特段訓練をせずに、仕事でもなんでもなく、ただ手慰みに何か文章を書くとしたら、それが一番書いている当人にとってはエキサイティングで、真に迫れるやり方なのであるから、まああまり目くじらたてて叱ることもない。

喜ばしいことについて文章を書くのが難しいもっとシンプルな理由、それは、喜ばしいことはただ喜ばしいので、文章にするまでもないというのもあるだろう。
何か、噛んでも噛んでも飲み込めないようなことを書きまくるのが、人が長い文章を書く最も簡単なやり方だ。それは噛み締める動作そのものでもある。
喜ばしいことは消化にいい。消化にいいから噛む必要もない。飲みこんで、ただそれだけでおいしかったり、自分の血肉になったりする。
喜ぶべきことだけど文章にせずにはいられないぜ、ということがあるとすれば、それは、何か身に余る栄誉を授かったとか、天を仰いで驚いてまだ現実だと信じられないような驚きを伴う喜びとか、そういうものだろう。
たとえばただ今朝食った目玉焼きは我ながらベストな黄身の固さであったとか、そんな話は別に文章にするまでもない。噛んでも味は変わらないし、かみごたえのあるような事実でもない。ただ、喜ばしい。
小さな幸せを綴るには文章というのは不向きなのだろうと思う。
だから、可愛い雑貨屋さんとか、可愛い絵を描く人とかがたくさんいる。たぶん、幸せを形にしたいのであれば、文章以外の形式を取るほうが良い、そんな気がする。
もっとも絵も描けないし工作の類も何もできないからわからない。
ただ、手慰みに毎日のように書いているブログの記事もだいたい30本くらいになってきて、なんだか、ただの小さな幸せは別に文章にしても楽しくないなあ、なんか、酔っぱらいが管巻いてるみたいな文章書いてるほうがずっと楽しいなあ、と毎日のように思っているから、もしかしたらそうなんじゃないかと推測しているだけである。

幸せを外に示すことができないのはべつに不幸せであるからではない、これまでの話を踏まえるとそういうことになるし、実際そうであると思う。
同様に、不幸せや悪口を発信するのは、その人が本当に不幸せであったり、四六時中悪口を言いたくてたまらないからではないのかもしれない。
ただ、暇つぶしに文章を書いてTwitterとかに投稿してみたら、なんだが悪口とか不満とかが先に出てくるぞ、というだけのことかもしれない。
そんなわけで、悪口や糾弾のたぐいがバズって「おすすめ」欄に出てくることがあまりにも多いのも、まあ仕方ないのかなという気もする。
それにしても、たった140字の枠で満足なのだろうか。少なくともおれは何か悪口を書きたくなったら、140字で発言をまとめることなどできない。もっと気楽に数千字の文章が投稿できる場所を持っておいたほうがいいと思う。
数千字かけて述べた悪口には、たぶん、大したこと言っていなくても、140字でまとめちゃったものに比べれば、なんらかの迫力がそなわる。それに、長ったらしく書くようにするだけでも、過激な言葉を使ってしまうのはいくらか予防できるんじゃないだろうか。

ところで、ボーナスが入ったとき、別に買いたいものなんて何もなかったはずなのに、なぜか金を使いたくてたまらなくなってしまうこと、ないかな。お金を貯めるのが苦手な人によくあることだ。おれはいつもそう。
これって一体なんなんだろうね。お金なんて別に急いで使う必要はないのに、むしろ急いで使わないほうがいいに決まっているのに、一時的にたくさんお金があると使ってしまいたくなる。
お金についてはいろいろの意見があるだろうから、あくまでもこれは持論だけど、これは、たくさんのお金を持ち続けている自分が想像できないから、ようは自分の想像に見合った分まで、想像から溢れたぶんは即座に消費してしまいたくなるんじゃないだろうかと思う。
つまり、自分の想像を超えたぶんの手元のお金は「余剰分」として数えるのが自然な判断で、その余剰分を、貯金とかそういう形で抱えたままでいるには、理性や人のマトモな意見が必要になってくる。
貯め込むというのは賢い理性で判断した上の行動で、使い切ってしまうのこそ、自然な判断なんじゃないだろうか。しかも、そこに、具体的な欲が一切なくても。
話が逸れてしまった。ちなみにそういうとき、おれはとりあえず防災グッズを買い込むことにしている。東急ハンズなんかに行って、普段買わないような非常食とか、携行トイレとか、あればあるだけ良いものをたくさん買って帰る。

ところで、気持ちの整理がつかないときに文章を書くのも似たようなものかもしれない、と思っているから、こんな話をしたのだけども。

時に、自分のキャパシティを越えそうな何かが湧きあがる。そういうときは、とりあえずなんでもいいから思いついたことをばちばち打ち込んでいくと気分が良くなる。
日常を過ごす上で抱えていられない余剰分の何かを、文章を書くことで消費する。
外部からの刺激か、内面からの悩みか、何かはわからないけど、なんらかの余剰が人間の中には常にある。何が余っているのかといえば、いわばエネルギーが、といっても、別に日頃から元気が有り余ってしかたない、とかそういう意味ではない。
何にせよ物事に遭遇するというのは、それが良いことであれ悪いことであれ、自分という存在に物事がぶつかってくる時に発生するエネルギーがある。
内面のみにおいても、人間の頭の中では絶えずいろいろなものがぶつかり合っている。ぶつかり合っている、というのは別に、あちらにしようかこちらにしようか、という悩みが常にあるとかそういう限定的な意味ではなくて、もっと広範に、頭の中であらゆるものが動き回っているということだ。そのエネルギーも、じっとしていればすぐに一杯になってしまう。
だからこういうものを消費する必要がある。抱え込んではいられないから。抱え込む、というのは悩みについてのみ言えることではなくて、人間はただ生きているだけで何かそうしたエネルギーをどんどん抱え込んでいくものだとおれは思っている。
こうした余剰エネルギーの消費において、文章を書くという行為はかなり有効だし、割と誰にでもできることなんじゃないかと思う。

それに、そうして書けたものとか、あるいは、書いた経験そのものが、「有事」への備えになっているような気がする。おれがお金を余らせたとき(お金が本当に余っている時なんて今まで生きてきて一度もないのだけれど)、たくさん防災グッズを買うのと同じように。
「有事」というのは、日々なんとなく苦しいときとか、イラついたときとか、悲しい時とか、理由もなく寝れない時とか、そういう時だ。
そういう時に自分の書いたものを読み返すと、なんというか、自分のリズムを感じるというか、自分の書いたものだなあと思う。これが結構気分の回復に役に立ったりする。
それに、べつに自分の書いたものを読み漁らなくてもいい。ただ、こういう思考のルートを一度辿ったことがある、みたいな記憶が、なんらかの文章を書くことによって生まれてくる。この記憶というのは、どちらかというと「自転車に乗ることができる」とか、そういう身体的な記憶だ。
つまり、ただ文章を書くだけでも、頭の使い方、日々の気分の巡らせ方みたいなものが、より円滑になってくる。

とまあ、そういう訓練の意味もあるので、運動と同じように、文章を書くのは健康にいい。と、おれは思っている。

ひょっとすると何か悪いものを見たり、腹の立つことに遭遇したときほど悪口とか不平不満がすらすらと出てくるのも、筋トレするときに重りで負荷をかけるとか、ストレッチで体を伸ばすと痛いのに気持ちいいとか、そんなようなものなのかもしれない。手ごろな「負荷」を見つけたから、いっちょこねくり回してやるか、みたいな。

「負荷」にあたるものは人間の中にいくらでもある。
あえて外に探しに行く必要すらない。悪いニュースとかムカつく出来事とかをあえて探しに行く必要もない。自分のなかに、余らしているものがいくらでもあるはずだ。
それに加えて、日々仕事でもしようものなら、もう全身余剰エネルギーでいっぱいだ。ぜひ、それをどんどん消費するべきだと、おれは思う。

さて、先のお金の余剰の話においては、使い込むことこそ天然自然の判断であって、貯め込むことは理性のなすことだと言った。
では、人間の中の余剰エネルギーを消費するために文章を書くのだとしたら、文章を書かずに貯め込むことこそ理性のタガによるもので、文章を書くほうが天然自然な振る舞いということにはならないかな?
おれは、わりとこれ、本当にそういうところがあるような気がする。