タコノキ

実がなる

通勤電車より(三)

老いた人について

歳を重ねると無理が効かなくなるという。
おれはなんとなく、これはいまいち正確ではないと思っていて、正確には自分の無理を自覚し、無理をしたときの不利益を勘定し、無理を避ける能力が、歳を重ねたとようやく言えるような歳になって、初めて身についてくるのではないかと思っている。

また、こういうこともあるかもしれない。

歳を重ね、人生上のさまざまなしがらみにより、今現在日々無理をせざるを得ないところにいる。
そうした毎日を過ごすことで、だんだんと身体の調子が悪くなっていく。
これまで、このように日々無理を重ねたことなどなかった。あるとしてもそれは突発的な無理であって、いつもいつでも無理をするような状況になったことはなかった。
そして、無理が常態化する。体は常に苦しんでいる。ああ、無理などするものではないなあ。もう無理をするのはやめよう。
「歳をとると無理が効かなくなる」の正体は、この実感の感じられかたが少し省略されたものかもしれない。

また、こういうこともあるかもしれない。

人からどう思われるかが、歳を重ねてどうでもよくなってきた。こうしてみると、今まで人からの評判を気にしてずいぶん無理をしてきたものだ。
人からどう見られるかなど、もうどうでもよくなってしまったから、最近は好き勝手にやっている。
今から昔のように無理をしようと思っても、とてもできたものではない。
このような変化を、少々粗く解釈すれば、「歳がいったので無理ができない」ということになるだろう。

いずれにせよ、歳を重ねて無理ができなくなるという変化は、「歳がいったので体力が落ち今までできたことができなくなった」などという単純な理由では説明がつかないはずである。
加齢がもたらすのは肉体の劣化だけではないことを、十分に加齢したものこそよく知っているはずだ。加齢することで人にはよかれ悪かれ様々な変化がある。
また、肉体の加齢については皆敏感すぎるほどに敏感だが、心の加齢については極めて鈍感であるように思われるし、さもなければ、少なくとも心の加齢について語られることはそう多くない。
肉体が加齢することを恥ずべきとは言われないが、心が加齢することは恥ずべきことであるとされているような気がする。だからあまり語られないのかもしれない。
現に、「老い」という言葉に他者を非難する意味がこめられるとき、それは必ず心の加齢について言っている。老いた心から生じた態度を目の当たりにして罵声を浴びせるのと同じ調子で、老いた肉体についてなにがしか述べるものはいまい。もし居ればそれは非情で、暴力的で、差別主義的ですらあるとされるだろう。
では、ひとつ。
心が加齢する、加齢に応じて心が変化するのは悪いことなのだろうか。
一般的な理想として、ある年齢までは心は加齢に応じて変化すべきであり、ある年齢より先は加齢してもなお変わらぬ具合を保つべきであるとされる。ある年齢、というのがいわゆる大人の境界線である。大人になれ、と言われるとき、それは身体について言われているのではなくて、心のほうについて言われているのは、「大人になれ」という文句から直感的に感じるとおりである。
そしてそこから先、つまり大人になった後、体は老いても心は老いてはならないとするのが通俗的な感覚かと思う。若い者のもつ心のほうが、歳いった者の心より良いとされているような、そんな向きがある。
しかし、こうも言えるだろう。
冒頭で述べたような「無理ができなくなる」状態への変化が、ある程度老いた身体や心こそがもたらす現象であるというのは、読者のほとんどに同意を得られる見解かと思うが、そうした変化を経たあとの心身は、かつて無理をしていた頃よりもずっと良い状態であるはずである。
つまり、大人になってなお、心が加齢に応じて変化していくことは必ずしも悪いことではないはずなのである。
にもかかわらず、老害、などと罵声が飛ぶとき、それは身体が老いたことをいうのではなくて、心が若者と異なる、ある特定の種類の、とても憎むべきとされるようなあの様子をさすのはいったいなぜなのだろう。
肉体が老いることを悲しむものはあれど、非難するものはいない。しかし心が老いることは、往々にして非難の的となる。また、肉体が老いることを非難すると途端に暴力的、差別主義的になるのはなぜだろう。
それは、人々の間に、肉体の老いは不可避の現象であり当人に何の責めもないので、それを非難してはならないという規範意識があり、なおかつ、心の老いはいかようにでも当人の努力次第でコントロールできるものであり、心が老いているのはその努力を怠ったからである!という解釈があるからではないか。
では果たしてそうだろうか。心は本人の意志によりいくらでも若々しくあれるのであり、若々しいことがよいことであり、老いていくことは全く悪いことであるのだろうか。われわれは常に心を若く保つ努力を怠ってはならず、怠ったものは非難されて然るべき悪人であるのだろうか。
老いて、意固地になり、声が大きくなり、異なる意見を軽視し、他者の迷惑を考えず、目につくものに悪態をつく。そんな人がいるかもしれない。
しかして、しかし。
老いの喜ばしきことの一つに、老いて初めて無理の効かない、無理をしない心身を持つことができる、という点があるのではないか。そしてそのような、歳を重ねた人だけが持ちうるあり方が、周囲のためになることが大いにあるのではないか。
さらに、そうした「良いとされる老いかた」は、「悪いとされる老いかた」と源を同じくし、二者の根本的性質になんら違いはなく、ただその力の向きかた、作用の方向性、ベクトル、が違うだけ、なのではないか。
そしてその根本的性質を言い表すひとつの表現こそが、老いて初めて持ちうるとされる「無理のきかない心身」なのではないか。

ここからは理屈を離れた体感の話である。

なんとなく、五十代を越えたあたりから、人の話を逐一真剣に聞かない人が増えてくると感じる。
そのような人を非難しようとして言っているのではない。
むしろ、おれのつまらないこだわり、おれの語る彼らにとって真に考慮すべきでない事項等々を、まるでおれが一言も言葉を発していないかのように聞き流し、おれの話に割って入り、平然と自分の思うところについて話を始める。
この仕草に、おれは幾度となく救われた気持ちになってきた。こうしたおじさんおばさん、おじいさんおばあさんがおれの話をさえぎったことで、何度となくおれは救われてきた。主としてそれは仕事の場でである。
彼らが話を聞かないおかげで、覚えていないおかげで、それでも、彼らにとって大事なことだけは忘れていないおかげで、それがおれにとってどうでも良いことであったとしても、おれは気が楽になり、仕事が前に進むのである。
こう言ってよければ、歳いってなお若者の(おれの)話に流されてしまい、言いたいことを勝手に言ったりしておれの話を遮らない人を、おれはたいして好ましく思わないだろう。

べつに、自分の意見や意思を軽視して、年長者の意見を尊重すべきとかそんなつまらない話をしているのではない。
ただ、歳を重ねた人だけが初めて持ちうるある種の自分勝手さが、まわりのものに逐一真面目になろうとして、何にも真面目になれずじまいとなりがちな若い心を救うことが大いにあり得て、そうした場面におれは何度も出会ってきたので、こうした現象はある程度人間普遍的なものなんじゃないか、という話である。

幸せについて

自分を脅やかすであろうと予期されるものが、どのように我が元をおとずれ、自分をどのように途方もなく脅やかすかについて、また、おのれ自身がどのように愚かにも自分を脅やかすかについては想像逞しいことこの上ない。
なのに、自分を救うであろうなにかが、どのように自分を救うか、あるいはおのれ自身が高潔なる精神をもって、自分をどのように救うかについては全然自信がない。
いつでも背中か足下かに冷たいものが忍び寄るのを感じながら生きており、それらを追い払うのに必死で、それ以外のことなど考えようがない。
こうした状況にある人は、やがて訳知り顔でこう言うようになることがある--幸せはいとも簡単に崩れ去るものだから、守ってやらねばならないのだと。
おれはそのような言葉を信用しない。
その言葉は、おのれを脅やかすあらゆるものからただ一時逃れていることを幸せと呼ばざるを得ない、そのことへの慰めにすぎない。
その言葉を用いる人は永遠を求める気もなければ、真に自分が救われることも望んではいない。なぜならそれは永遠を諦めた者のための言葉だからである。悲しみに満ちた言葉である。
非難したいのではない。しかし、どうやっても幸せは簡単に崩れ去るのだという前提のもとに、そんなあまりにも悲壮な前提のもとに生きることができる人間など、果たしてこの世に、ただの一人として本当にいるのだろうか。
儚く美しい瞬間がある。それを人は幸せと呼ぶかもしれない。しかしそのひとときだけが幸せなのではあるまい。
愛おしむべき何かがある。よしんばそれが、よく歌の中に歌われるように「手のひらからこぼれ落ちていく」ようなものであるとして、果たしてあなたはそれをやすやすと取り落としたりするだろうか。そんなわけはあるまい。
安住の地がある。そこを守るためにあなたは日々戦っているかもしれない。
その戦いにあなたは敗れることもあるのかもしれない。
しかし、その敗北は簡単なものだろうか。かりに敗けたとして、戦い抜いたあげくの、血の滲む結果なのではないだろうか。何かに敗北するとき、簡単に敗れることなどない。あなたは投了、などといって簡単に安住の地を捨てることなどできないはずである。
幸せの中にある人間は力強くあるに違いない。そうした幸せは決して簡単に崩れ去るようなものではない。
また、幸せはあたかも金銭、趣味の品、一時の恋人等々のように、手に入れたり失ったりを繰り返したりするようなものでもないはずなのである。
とまあ、壮大なことをいいたくなるのは、いまのおれがここで幸せ(と、おれ自身呼びたがる何か)に接近したいと願いながらも、目の前の忙しさ、今週の仕事上の余裕の有りや無しや、家にすぐ食えるうまい飯の有りや無しや、妻のかわいさ、今日が仕事の日であるか休日であるか、等々に一喜一憂するほかないような生活をしているからであろう。
幸せに接近する歩みは極めて遅い。しかし極めて遅くとも、十代の頃よりもずっと近いところに幸せはある。
朝の電車の憂鬱と、夜の電車の倦怠に溺れぬように、このような、たまには、壮大なことを、日常的に述べられぬようなおのれへの励ましを、せめてブログにでも書き残すべきなのである。