タコノキ

実がなる

日記 終わる正月によせて

晦日の散歩

散歩に出ることにした。家であれこれやっていたら、家から遠いところへ行きたくなったので、とりあえず最寄りの駅から電車に乗ることにした。
あちこちで人身事故が起きている。電車もいくつか止まったり遅れたりしている。三十日の昼間になんとも痛ましいことだが、いち利用者としては早く電車が動いて欲しいと思う。さて、どこかの誰かが死んだかもしれないことに対して思うことはこれだけか、と、なんとなく後ろめたい気持ちになりはするが、そんな気分になる筋合いはひとつもないから気にしないことにする。

適当に下車する。駅前のこぎれいな商業施設。マクドナルド。塾帰りだろうか。子供の注文に応対する店員は親しげに丁寧に話している。
やがて品物ができあがると、店員はどうぞ、といって紙袋を手渡す。子供はふかふかのダウンジャケットの懐に紙袋を詰め込んで走り出す。

ビジネス街で人気の外食チェーンも今日ばかりは閑古鳥、ただ煌々と看板が光っている。
たまらなくあそこで飯を食いたいと思った。店員ものんびり食器の片付けなどしている。

都心部でよく見る「ストレッチ 何円」という看板のそばで立っている快活そうな店員。なのだが、あの男女二人はかなりイチャつきながら喋っており、とても客を引く気はなさそうである。そんなのアリか?店長などは知っているのだろうか?
まあ、今日くらいこんな感じでもいいのだろう。三十日の夜にちょっくらストレッチでもしてもらうか、などという人はどのみちいるまい。

大きな通りをしばらく、だらだら歩いた。
車通りもまばらな片側二車線の広い道を、車椅子を押してゆっくり歩いている二人連れがある。目の前には駅のエレベーターの乗り口があったのでそこへ行くのかと思ったが、引き返してまた車道をゆっくり、ゆっくり進み始めた。

よく歩いたので満足した。こうなると今度は、人のいるところで酒を飲んだりしたくなる。目に入った中華屋に入るかどうかと考えていると、路地裏のほうからシーシャの匂いがする。Googleマップで確認すると果たして確かにシーシャ屋がある。
そういえば今年は全然吸ってないな。寄ることにした。

タマリンド、アマランサス、ではない、なにか花みたいな名前だった。そうだ、おれはパンラズナが苦手なのだった。シーシャで苦手なフレーバーの名前。好みを店の兄ちゃんに聞かれた後で思い出した。
シーシャ屋にはいつも一人で行く。別に馴染みの店があるわけではないから、いつも一人でぷかぷかやって、何となく店を見渡して、ぼんやり考えごとなどしている。そういう場所のことほどよく覚えていたりするものだ。
少し前に行ったシーシャ屋で、店員の女性が吸っていたのを勧められるがままに吸った。パンラズナと何かのミックスだったと思う。おしゃれな洋風のお香をそのまま吸い込んでいるような味がして咳き込んでしまった。
あの時パンラズナを吸っていたのは、派手目な、四十くらいの女性だった。今思うとまあ、「らしい」フレーバーの選び方だと思うし、それを勧められて吸った若い男がげほげほむせている、というのもまあ、なかなか、どうして、悪くないなあ、などと思う。

店の兄ちゃんがシーシャ台を持ってきた。
聞けばついさっき、換気のために窓を開けたらしい。おれはその換気の都合で表通りに流れてきた匂いに釣られたというわけで、そんなことを話したら喜んでくれた。
ミルクとシナモンの味がする甘ったるい煙をぼこぼこやりながら、ちょっとチャラついた感じの兄ちゃんと話す。全然普通の世間話。
今年が終わる。ちょっと実家に顔を出して、あとは自宅に戻る。最近酒を飲みすぎた。腹減った、コンビニのおでんが食いたい。昔どこそこでバイトをしていた、等々。
店構えはなかなかアングラ感がある。ドアは非常扉みたいなのだし、店内は暗い。内装はあんまり工夫されておらず、壁紙はふつうのやつで、業務用の送風機などがごんと置かれている。バーカウンターはそれらしく設えてあるが、奥の作業場には家庭用の冷蔵庫がぼんやり照らし出されており、似つかわしくない生活感がある。
兄ちゃんたちの仕事ぶりは真摯である。
ベテランぽい兄ちゃんと、その後輩ぽい兄ちゃんが、カウンターの奥でシーシャを作る時の技術的な話をずっとしている。
後輩が作ったシーシャに対してベテランの方がいろいろ感想を述べたりしている。
そんな中でも炭換えのときはおれと話をしてくれる。居心地がよい。

煙に満足した頃、常連らしいこれまた若い兄ちゃんがやってきて、店員と親しげに話し始めた。頃合いと思って会計をして外に出る。飯が食いたいと思った。帰って味噌汁を温めて飲むことにする。

大晦日

明けて大晦日の朝、実家に行く。特に何をしようというわけでもなく、挨拶をして、昼飯でも食べられたらいいなと思っている。
家に着いて住んでいた時と同じように「ただいま」と言う。
多分来ると思ってたから、昨日の晩多めに作った、とシチューが出てくる。
これが実家のありがたみである。コーヒーと紅茶を一杯ずつ飲んでおいとまする。帰りがけにイチゴを貰った。

実家近くに、いつも決まってダウンジャケットを羽織った爺さんたちが飲んだくれている広場がある。
年の瀬ともなればその宴会も豪勢になるとみえ、いつもはチューハイの缶が転がっているのが、今朝は生ビールの缶になり、枝豆の食ったあとまである。吸い殻も多めに落ちている。

自宅に戻る道中、大きい駅で降りて百貨店に寄り、安い棚を買った。初めからそのつもりだったので荷物運搬用の小さなカートを転がして歩いていたのだが、思った以上に張り切って大きな棚を買い込んでしまった。
直進もおぼつかないほどの重量を転がして歩く。駅構内をなんとかくぐり抜け、自宅最寄りの駅に着いた。
とりあえず室内に棚を運び込む。組み立てるのは年が開けてからにする。

大晦日の夕方ほど楽しい日はない。飯を作ったりなんだりしながら、年末特番のラジオを聴いて過ごす。
買い忘れた食べ物があるのに気がついて、閉店2時間前くらいのスーパーに行く。
帰ってきて、キッチンペーパーがないことに気がつく。もう一度スーパーに行く。
さらに帰ってきて、コンロの着火用電池の交換アラートが点滅していることに気がつく。もう一度スーパーに行く。

飯を食いながら紅白を聴いて、初詣の支度をする。
寒空の下近くの神社へ向かう。ガビガビのスピーカーで何事か神社の人がずっとアナウンスしている。
御神酒が3本、自由に飲んでいいぞと開けられていた。飲み干されていたが。

帰ってからどん兵衛を妻と分け合って食う。

元旦のこと

目を覚ますと時刻は10時を回り、日の出はとうに過ぎ、つけっぱなしのエアコンのお陰で部屋は暖かいままだった。

能登のほうでかなり大きな地震があった。直接大きな被害を受ける親族はいないが、なんとなく心配になって家族のLINEグループにメッセージを送る。まもなく返事があった。こうしたことが今日何度、何人の間で行われ、小さな安心をいくつ提供したろうか。
ラジオをつければアナウンサーが鬼気迫る声で避難を呼びかけている。平時ではない。そうした印象が刻みつけられる。

SNSを眺めたりもしたが、今日はやめておくことにした。多種多様のデマ、意図的なフェイク等々の問題ももちろんだが、それ以前に、多くの人のリアルな恐怖、被害に遭った人、そうでなくただ怯えている人も含めて、そうした人たちの恐怖を、やり場なく仕方なくインターネットに発信された恐怖心を、指向性を持たないがゆえに万人のもとへ等しく受け取られる恐怖を、何も進んで、万事が無事なおれやおれのような人が取り込む必要はないからだ。

皆恐怖のあまり叫んでいる。ついTwitterでどこそこがどうこう、ためになる情報がどうこうと言いたくなるのは、怖いものを見て叫ぶのと同様のことである。
恐怖の叫びに指向性はない。その叫びは誰かに向けられたものではない。そうしてだからこそ、叫び声というのは万人が反応するのである。
それが情報であろうと、支離滅裂な推測であろうと関係ない。恐怖に脅かされた人々はとにかく指向性をもたぬ大声を発信したがる。これがただの叫び声でなくてなんであろう。

たとえば現実に肉体から発せられる叫び声を文字に起こしても、それはなんの意味をももたない。
「わーっ」と書き起こしたところで、肉体から発せられる叫び声のような、万人の注意を引く、あの作用をもつことはない。
だが我々は文章で叫び声と同等のものを発信する方法を知っている。そうして恐怖が目の前に現れ出たとき、その方法を、特に意識せずともやすやすと実践することができる。

人が叫んでいる。目に入る人のほとんどが叫んでいる。一見理知的なそのメッセージも、おれに向いたものではない。おれにとってはただの叫び声である。恐怖を媒介するだけの叫び声である。
このような時にタイムラインをくまなく眺めるのは、そうした叫びの只中に身を置くことに他ならない。

他方、ラジオの放送では、NHKが鬼気迫るアナウンサーの声を被災地の人へ向けて発信している。
当然のことながらこの声はおれには向いていない。今のおれには、その声を聞く理由はない。これは被災地へ向けられた放送だからだ。そう割り切って、おれはラジオのスイッチを切った。
この、当たり前の行為を行うまでにいくつもの逡巡があった。
なにがおれを悩ませたのか。それはおそらくおれに内在する全体主義的な考え方である。日本のどこかが大変なことになっているのだからおれも緊急放送に耳を傾けて、緊張しておかねばならないと思ったのだろう。

遠くで災害があった。怖くなった。いろいろのことを見聞きした。さらに怖くなった。おれはもぞもぞと恐怖に悶えていろいろの独り言をこうして書きまくり、やがて冷静になりつつある。
こうしたことを、今日何度、何人の人が行ったことだろう。

街に出てみれば、休みの店が並んでいる。今日はやや寒い。酒屋と寿司屋は開いている、そういう日だからだ。
家族連れが歩いている。一目で家族とわかる。似ていないと本人たちが思っていても、他人から見ると彼らはよく似ており、顔貌の共通の程度などどうでもよくなる程それ以外のところが似ているのである。