タコノキ

実がなる

通勤電車より(二)

生活上の雑事にはどれだけ時間をかけてもよいし、またそうすべきである。
全てに優先して煮炊きや洗濯、ゴミの片付けをするべきであるし、それにどれだけ時間がかかろうとも悪いことではない。
こうした前提をもっておれは毎日過ごしているのだけれども、実際のところ、結構大変であるし、仕事に追われてそうもいかない場合がある。
それを例外として認めるべきだろうか。あるいは、例外としてではなく、常日頃そういうこともあるものだとして受け入れるべきであろうか。
しかしどれだけ疲れていても台所に立つのは楽しいし、自分で作った飯を食うのはもっと楽しい。自分で作った飯を食ってくれる人がいれば、それはなおのこと楽しいので、おれは是非とも毎日料理をしたいのである。
掃除はさほど好きではないが、脱衣所に散らかった髪の毛とホコリをほうきでかき集めるとき、おれはやって然るべきことをやる気持ちよさに浸ることができる。ゴミ箱のゴミ袋をかけかえたりするのも同じ心地である。
洗濯をすると、この先数日着るものがあることに嬉しさを覚える。在庫補充の気持ちよさ。足りなくなりそうなものを補充し、また足りなくなるこのサイクルの心地よさをおれは感じることができる。
家事は日々繰り返す。日々繰り返すことを当たり前と思い、当たり前を遂行し続けることをうれしく思うことができるとすれば、それはこの世に家事だけが持ちうる喜びである。

駅を数えて安心する。残りの駅が少なくなったら、駅間の長さを確かめて安心する。
そうして頭の中で仕事場への到着を先延ばしにしているうちに、電車は仕事場の最寄駅へつく。
朝目が覚めてからやっていることはずっと同じだ。起きて、布団を出なければならない時刻までの分数を指折り数え、起きてからは家を出なければならない時刻までの分数を指折り数え、家を出てからは最寄駅に着くまでの道のりの長さを噛みしめている。
たどり着くことをずっと先延ばしにしている。先延ばしにしたくてたまらない。
職場に着くまでの時間が退屈だったことはない。なぜなら、それが毎朝おれに与えられる猶予だから。猶予を噛みしめて、眠ってみたり文章を書いたりしている。

夜遅くまで仕事をしたあとは、事務所のまわりをふらふら歩いて回る。普段通勤に使わない道とかを歩く。
たぶん、何も判断ができなくなっている。だから無意味なことをして、判断のできない自分を確かめる必要があるのだ。
判断ができなくなっていることすら、判断ができなくなっている。だから、とにかく何も決めずに、飯屋を決めようとかも考えずに、無意味にあっちこっち歩く。
そんなことを10分も続けていると、ようやく「おれはいったい何をやっているんだろう」という気分が湧いてくる。
無意味に道を行ったり来たりしても、10分経つまで自分の行動を疑問にすら思わないのだから、つまりそれほどまでに判断能力が落ちている。
自分がそのような状態にあることを、きちんと噛み締めて理解して、後の残り少ない一日を、残り少ないとか決して思わず、ゆっくりゆっくり行うべきなのである。

疲れたときにポルノコンテンツを過剰に摂取することがあるのは一体どういう機序なのだろうか。ポルノは癒しであるか?これはなんとも言えない。
昨日は疲れて、変な時間に寝て、変な時間に起きた。23時くらいだったと思う。風呂に入るのはもう諦めていた。
そういう時には決まってリョナものとか触手とかそういうのが見たくなる。バイオハザードのジルと、スカイリムの全裸modが好物である。眺めているとだんだん意識が明晰になる。目が据わってくるとでも言えば良いか。
目が覚めたので食器の片付けをした。歯を磨いた。乾燥が終わって、洗濯機に入れっぱなしだった洗濯物を取り出した。
眠る前にはできるだけでかい声で変なことをやっている動画が見たくなる。素直にワハハと笑えるようなものが見たくなる。
疲れたときはリョナで潜って、面白い動画で浮上する。およそ精神状態はそのように変化する。

同行者に早口で自分が強いことと正しいことをずっと喋る身なりのいいおじさんは、いつの間にか降りて行った。身なりもいいし顔立ちも綺麗なのに、あんな話し方であんな話しかしないのがもったいないなと思った。あれさえなければさぞかし女性にモテるはずである。
聞き取りやすく早口で、ハリのある声で話す。彼の語る彼自身の物語は、彼が正しかったという話、それに比べて相手か周囲が愚かだったという話。二、三のエピソードを同行者に語ってはいたが、すべて概してそのような話であった。
次にどんな言葉が飛び出すか、だいたい予想がつく。それは語りを頭で組み立ててから話している証拠である。
彼が何を話そうとも聞く人は戸惑わない。その予想のつき具合こそ、彼が仕事の場で醸し出すであろうビジネス的心地よさであるに違いない。彼は彼の仕事についてだれかと話す時、つねに整然と物語を展開できるように準備しているはずであり、それを聞く者はみな彼の用意周到さ、あるいは彼の醸し出す一貫性、それらに感心しきりであろう。
ただひとつ悲しいことに、彼の話し方は、およそくだらぬ雑談においてすら、そのようなものに成り果てているのである。
彼は彼自身が彼に与えた勲章について、同行者に語り続けている。彼の最大の勲章は、彼自身によってこのように語られる--自分が理路整然と、またかつ強かにあったために、おれはおれのしたいようにできたのだと。
おそらく彼の仕事においては、自分がしっかり物を考えていたと周囲に示す必要が常にある。いかなる場合においても浅慮は悪であり、浅慮であってもそれを他者に見透かされてはならない。そのような姿勢、あるいはプライド、あるいは戦術が重んじられる世界で生きることを重んじるあまり、彼はそれらを忘れることができなくなってしまった。
これは悲劇である。
彼がいつ電車を降りて行ったのか知らない。乗ってきたことには気づいたが、いなくなったことには気が付かなかった。
ここまで考えてようやく、おれは内心、彼に一刻も早くこの場からいなくなってほしいと思っていたことに気がつくのであった。