タコノキ

実がなる

情熱大陸と憧れ(4045文字)

なんというか、「情熱大陸」的なものは長続きしない。
別にあの番組がもう長続きしないとか言ってるわけではない。
あのナレーションをバックに頑張る感じというか、シビアにキリキリやりつつも、そういう自分を客観視して、
「ハア何やってんだろうなあ俺、ま、まだまだ頑張りますけどね」
みたいなありようが、不健康、というか。
おのれの気高さに自覚的で、やるべきことやるだけです、みたいな。
そういうあり方を自覚的に、自ら目指そうとするのは、何か破綻してるんじゃないかな、と思う。
実家の夜中のテレビには「情熱大陸」が好んでよく映されていたのだけど、おれはあの番組があまり好きじゃなかった。
なんていうかなあ、人ってそんなにカッコよさげなあり方になることがあるんだっけ?葉加瀬太郎のキレキレの演奏が似合うような。美しいバリトンボイスで、切れ味鋭いナレーションがつくような。そんな人周りにいたっけ?
あの番組は実在の人物に密着して作られた、「彼本来の」姿、に基づいて作られた、彼の姿から遊離した刹那的なきらめきだけを寄せ集めて作られたそのかたまりを、彼の素顔と称しました、そんな味がする。
すみません、書き始めた時は番組の悪口を書く気はなかったのに。情熱大陸ファンの気をたいそう悪くする言い方になったと思う。
しかもこの先も、だいたい同じような話が続くから気をつけてほしい。あの番組が好きな人は今すぐ読むのをやめることを勧める。

僕が長続きしない、と言ったのは、「情熱大陸的」なあり方頑張り方である。
仕事をする人間がまとうことのできる物語とでも言えばいいのかな、それを意識的に自分の中で作り上げ、その物語の尊さ気高さでもっておのれを鼓舞する。情熱大陸を頭の中で再演するわけだ。
別の言い方をすれば、自分の仕事ぶりを第三者的に高く評価して、その評価を、自分が自分に与えた第三者的な評価でもって、おのれ自身を褒めたたえて採点するような、いわば「外側から見た自分」がどう優れているかを、己の中で常にエミュレートし、それを人生の基準とするような、そういう心の持ちようは、どうも健康から遠ざかる道に思えてならない。
こうしたあり方を、僕はあの番組への苦手意識をこめて「情熱大陸的」と呼びたくなってしまうのだ。
周りにどう思われているかを常に気にするのとも少し違う。
己が己に対してどう感じるか、己は己を第三者的にどう思うのか、そうした目線を持ってしまうこと。
ありていに言えば、「自分を客観視する」とかいうやつ。
その行為、目線、それそのものを僕はあまり健康とは思えない。

じゃあ初めから
「"自分を客観視する"とかいうのが気に入らないんだぜ」
と言えばよかったろうに、なぜ大人気長寿番組の名前を借りてこの文章を書き出したのか。
それは、あの番組がもつ独特の雰囲気こそ、「自分を客観視する」という行為が、ひとつ不健康な方向に極まったらああなる、と説明するのに一番適当だったからだ。
情熱大陸がTBSの人気番組としてあることが気に入らないんじゃ、とか言いたいのではなく、めっさ簡単に言えば、
頭の中で自分を主人公に情熱大陸を演じ始めたら、それは人間の最も不健康な姿のひとつなんじゃないの、ということが言いたかった。
これで主意がわかってもらえたろうか。

では、話を進める。

情熱大陸は人にフォーカスした番組だ。それに異論はないと思う。各界の著名人、著名ではないけど業界ではすごく優れた人、いろんな人の仕事ぶりをかっこよく語る番組だ。あの番組に取り上げられる人は皆カッコいい。カッコよく映そうとして、カッコよく映っているし、カッコよく映るだけのポテンシャルがある人を取り上げている。
ひいて、仕事をするおのれ自身をカッコいいと思うことはあるだろうか?これはかなり人によると思うけれど、僕はかなりこの立場に否定的だ。
だからと言って自分がダサいとか力不足だとか常日頃自己嫌悪を噛み締めているべきとか言いたいのではない。
仕事の達成はそれ自体で喜びであるべきで、その時、仕事を達成する自分自身はどうでもよくなるのがのぞましいと思っている。別におのれに陶酔したりおのれを卑下したり、そんな必要はない。
ようは、こうだ。
仕事に限らず自分が関わる事物はすべて、事物自体が楽しみとならねばならない。事物を楽しむ自分自身を楽しむ、というのは不健康、なんらかの自家中毒の姿であって、事物自体が楽しくない、やりごたえがないなら、その事物からはすぐさま手を引くべきである。

「この人のように頑張ろう」
情熱大陸はそのような形式で人をエンパワメントする力がある。すごい番組だ。
人が纏う物語はいつだって誰だって魅力的なものだ。ましてや、テレビに取り上げられるような、濃密な物語を纏った人のそれなら尚のこと面白いだろう。
けれども物語はその通りの良さ、伝わりやすさのために、事物の本質からたくさんのものを切り捨て、取り上げたい部分だけをより選んで作られるものだ。
世界から物語が生み出されるとき、そこに描かれていることよりも、描かれていないことのほうが多いのは当たり前のことだけど、優れた物語にはそのことを忘れさせ、まるで描かれたものが全てであるような錯覚を起こさせる力がある。
そして、人の纏う物語にも、同じ作用がある。
自分自身がまとう物語性について過度に自覚的になり、そしてそれを誇りに思ったり、逆にそれを嫌ったり、そのような気の持ちようになるべきではないと僕は思う。
なぜなら先に言ったように、物語、物語性、というものは、世界の大部分を描写から切り捨てて初めて成立するものであり、かつ、優れた物語はその切り捨てたものを忘れさせ、物語が世界の全てであるように思い込ませる。
人が纏う優れた物語に魅せられ、その物語を成立させるために切り捨てられているものをすっかり忘れ去ってしまう。これが、「人に憧れる」という現象だ。

ようは、人への憧れというのはいつも常に極めて表面的なものにならざるを得ない。
そしてそれは自分自身についても同じことが言えるというのが大事である。
頑張っている自分自身への憧れや、なりたい自分への憧れもそのようなものであるということだ。

例え話をひとつ。

憧れは船旅の北極星のようなものだ。手がかりにはなるが進むべき方向ではない。
憧れを目指して進むのではない。憧れを手がかりのひとつとして、どこかへ向かうのだ。
憧れを目指そうとする時、人は簡単に行き先を見失う。北極星にはどんなに手を伸ばしても届くことはないし、北へ向かって船を漕ぎ続けて辿り着くこともない。
憧れがあなたの体を温めることはない。冷たい夜空に浮かぶ一個の目印が、焚き火や温かいスープのように、厳しい夜の寒さを耐え抜く術を与えてくれることはない。

さて、例え話が済んだところで、憧れというものの正体に立ち戻る。
憧れとは物語に憧れることなのであった。そして物語は、多くのものを切り捨てて成り立つのであった。
憧れを憧れたままに目指すということは、いってみれば世界の表面にただ薄く張り巡らされたものをなぞるにすぎず、世界の核心にたどりつくことはなく、ましてやおのれ自身の核心にたどり着くことも永遠にない。
そして、物語は、紡ごうとして紡がれるのではなく、人々が人々や世界を「理解した」という前置きのただそれだけのために、仮に置かれるに過ぎないのである。
その最たるものを言語という。

急になにを言い出したんだ。

平たく言えばこうだ。世界をあるがままにごろっと認識することはできない。認識にはいつだって、手段としての形式と、限界としてのサイズがある。世界をある形式にあてはめて、僕たちは世界を初めて認識したと言える。
その形式、手段としてまず最も頻繁に用いられるのが、言語であるということだ。

「言葉通り受け取るな」なんて、よく言われる。
その通り、言葉はいつも常に仮置きのものであって、それは嘘とか軽薄とかではなく、言葉はそうならざるを得ない性質のものであるということだ。
そして、物語には言葉がつきものだ。物語に憧れるというのは、そうした仮置きのものに憧れるということにならざるを得ない。
憧れは目的地ではない、と言ったのは、つまりそういうことだ。

誰もが憧れるようなカッコいい人は確かにいるのかもしれない。けれど、それは外から見てカッコいいだけであって、その人自身が自分のことと、自分の仕事のことをどう思っているかは知る由もないし、その内心はその人が誰かに伝えようとしても伝わるものではない。
カッコいい姿は彼の物語のひとつだ。彼が、彼自身を世界に説明するためにもちいる、一つの手段にすぎない。それが本人の意図するところであれ、そうでなかれ、彼はカッコよさという物語を纏うことで、世界に参加する入り口を得ている、または、世界に対して、自分という混沌へのインターフェイスを用意しているのだ。
そして、情熱大陸は、このインターフェイスについて紹介する番組であるというわけだ。

さて、話を自分自身に移してみると、なりたい自分、憧れの自分、を強固に抱くことは、この「インターフェイス」を用意することに躍起になっているともいえる。
世界に参加する入り口がほしい、または、世界のほうから「自分という混沌」に触れてもらうための入り口を用意しようと頑張っているわけだ。

世界との接点を意識的に努力して用意し、世界と自分の関わり方、入出力、を自らすべて定義しようとする。
いわば、偶然性を排除して、世界と自分のすべてを計画の俎上におこうとする。
憧れを抱き、憧れに憧れたまま突っ走るというのは、そういう態度であると言わなければいけない。

文章はどこかで切らなければならない。ちょうど今は金曜日の夜なので、ここで一旦終わりにする。