タコノキ

実がなる

偶然は苦しい

今日はすいませんと何度頭を下げたかわからない。
今日はよろしく頼みますと何度人に言ったかわからない。
おれがテキトーに言ったことの間違いとそのすっぽかしが毎週毎日山のようにやってくる。覚えてねっつのそんなこと。

すみません。すぐやりますんで。あ、嘘。やっぱ用があってできないんでそこのあなたあと任せていいですか。すみません。
こんなことをよくやっている。
こんなことをすべきではない。

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今日はパスケースを家の中で失くして朝から探しまわっていた。そしたら15分遅刻した。
言い方が正確ではない。別に遅刻してもいいやと割り切ったうえで15分くらい探しまわっていた。こうである。
パスケースは見つからずじまいで、結局切符を買って電車に乗った。なかなか悔しい。
パスケースは全然失くしたことがなかった。なにか失くすようなことをしただろうかと考える。家に帰るまで持っていたのは確かだから、これといって決定的なことはない。
強いていつもと違うことといえば、帰り道に普段寄らない店で買い物をしたくらいである。
それが失くし物をすることと何か関係があるのかというと何もない。ただ、いつもと違うことをした。それだけである。
それだけであるが、いつもと違うことをしたのだから、いつもと違うことが起きてもおかしくないなと思ったりもする。

一体おれの生活は全てが偶然の噛み合いで保たれていた。
偶然やらなければならなくなったことを片端からいそいそやって、できるとこだけやって、できないとこはいつのまにか手元から滑り落ち、いつのまにか出来上がった。
だからおれはおれの生活の全貌を把握していなかった。把握しきれぬ偶然がおれの生活を作っていた。
生活の中でおれは無力であった。なぜならば、すべてが行き当たりばったりの偶然であったからだ。そこに意志はなかった。
たまたま今朝、不幸にもパスケースを紛失したのも、おそらくは普段しない買い物をしたことによって、偶然の作動が変化したからだ。
そして、この偶然の作動に呑まれるうちに苦しみが生じてくるのである。

偶然の最中では多くのものが億劫になる。それは、全貌を把握しきれぬ生活の作動の、どこにどんな手を加えたらどんな影響があるかがわからないからである。
どんな影響があるかわからないから、できるだけ手を加えないでおこうと思う。
そうして、珍しいことはだいたい億劫になる。友達と会う、床屋にいく、衣服を新調する、など。そのような、頻度の低く大切な事どもは偶然の中に組み込まれていないからである。
こういってよければ、大切なことは偶然の中には一切入り込んでこないのである。なぜなら、意志の欠落が偶然を呼ぶのであり、大切に思うとは意志の作用に他ならないからである。

生きるための努力とは、この憎むべき偶然の塊を意志の楔で少しずつ打ち壊し、作り替えていくこと、あるいは、意志の力で偶然の正体を読み解き、意志の支配下におくことである。

果たしてパスケースは自宅で見つかった。それは会社から帰ったあとのことだった。