タコノキ

実がなる

疲れと力について

休んでみた。暇だなと思った。だからといって、すぐに働きに戻りたいわけではない。
働かない日が続くと暇になるが、この暇が良くない。なぜ暇になるかといえば、精魂傾けなすべきことが足りないからである。
俺の精魂傾けなすべきこととは、仕事場でやること以外には炊事、洗濯、掃除、そのくらいである。
精魂傾けなすべきこととは、自分の力を、然るべき目標へ向けて振るい、その目標が自然と達成されるようなことである。この、自然と、というのが大事であって、自分の力を然るべき仕方で振るいさえすれば自然と何かがなされるようなことをのみ人間はするべきなのである。
できることだけせよ、というのとは少し違う。力を振るっていくうち、何かに行き詰まることもあるだろう。しかしそれでも、力を振るいさえしていれば奇策万策一切必要なく、その行き詰まりさえ解消することができることがいくつもあるはずで、そのようなことをのみ人間はやるべきなのである。
会社として人が何十人何百人といる中で、やることは無数に生まれて来る。おれはその一員となり、只中でせかせか過ごしてきた。やがて、自分にとって楽なやり方が見つかってくるはずであろうと信じている。自分が力を振るうべき、あるいは、自分の力の振るい方に見合った道を発見するであろうと信じている。
そうした発見に辿り着くまで、おれは無茶を重ねている。
その無茶に自ら少々耐えかねて、今こうしてまったく無計画に五連休を設けるに至った。

図々しさをおれは生来持って生まれてきたものと思う。自分のすべては必ず認められるという確信のもと、認められるための行動を積み重ね、どこかのタイミングでその貯金を崩し、自らめちゃくちゃになる。こんなことを何度もやっている。
「そんな人だとは思わなかった」
28年間で何度か、その、「めちゃくちゃになる」タイミングで言われた言葉である。
そろそろ、こうしたことをやめねばなるまい。
というか、やめたいのである。
この五連休は、自らめちゃくちゃになる寸前で、いわば崖から飛び降りる寸前にしゃがみ込んで崖の下を確認し、そうして崖から一歩遠ざかり、背後の平野を見渡して、まあ、ひとつ、そこに生えている草でも眺めることにしよう、と座り込む、そんな日である。

仕事場にはおれの精魂傾けるべきことがいくらかあることは疑わない。ただ、その傾け具合がいつも問題なのであって、仕事のほうに傾いたっきり戻らなかったり、傾けすぎて地面に擦ったりするのがよくないのである。ようは力の振るい方が悪くて、無駄に振りかぶったり、無駄に素早くやったり、無駄にあちこち手を出したり、そんなことをしているから、こうして突然休みを取ったりしなければならなくなってしまうのだ。

おれは、目の前におれが考えることが可能なものがあればすべておれが考えようとする癖がある。
それは、自分自身の頭の回転ぶりを速く見積もりすぎ、また手近な物事が自分の手を離れることを恐れ、他人を信用せずまた他人が自分と同じように自由に力を振るう権利を得たうえで互いに協力することを拒んでいるからである。
これがけっこうまずいのではないかと思う。
おれはこうした態度を10代のころからたぶんずっと続けており、なので、こうした態度が悪く見えないようにたくさん取り繕う術を知っている。
いわゆる「気のきく人」になりすましつつ、その裏では自らの身の回りをすべて自分で掌握しようと目論んでいる。
しかしそんなことができるほどおれは賢くない。
自分が自分に内心期待するほど頭は回らないし、周囲の物事が自分の手の内にあることは別に安心の種にもならない。ただ自分のやらねばならないことが増えていくだけであり、そのやらねばならないことをすべてきちんとやれるほどおれは素早くもないし要領良くもない。
このような反省が芽生えてきたのはこの2年くらいのうちでありほんの最近のことである。他人が関わる余地があるならそのすべての他人を関わらせること。自分の手の届く範囲のことをすべて自分でやらないこと。手の届く範囲というのは他人と自分の間で重複することがあり、その重複を不快に思うべきではないこと。
十分に実践できているとは言い難い(なのでいまおれは疲れて休んでいるのである)が、集団と関わり生きるにあたりおそらく正しいこれらの教訓が内から生じてきたのはたぶん喜ぶべきことなのだろうと思う。

自己のイメージと実際に発露する自分の性質に、深刻なギャップがある場合、それはただそれだけで深刻な苦しみにつながる。
かつて憧れたやり方は、今の自分には全く似合わない。そのことを認めてどんどん楽になるべきである。
さっき言ったように、奇策万策一切必要なく、自ら力を振るいさえすればよいやり方が必ずある。

憧れられやすい自分を人は自ら周囲へ発信する。それは見栄と呼ばれることが多いが、見栄を張りたいのとは別の機序でそうした発信を行なってしまうこともあるのではないかと思う。
憧れとは物語に憧れることである。他者のまとう物語に自らをも乗せようとすることである。
そして事物は、その外側に物語性を強く持てば持つほどに人から理解されやすい。
人に何かを伝えるときはわかりやすくあるべきであるというのはごく一般的な規範意識であった、それは、自己自身の説明、別にこれは朗々と自己紹介をするような場面に限った話ではない、人と関わるにあたり周囲の人間に自分を見せる時のそのすべての振る舞いについて言っているのであるが、その説明の外ヅラに、人は無意識に物語性を纏わすことをするのではないか。
物語性のよく見える人間はわかりやすく、気さくに見え、関わりを持つにあたり安心感がある。
人は人と関わるために無意識のうちに己の物語性を外へと発信し、それは時に他者から憧れの目を向けられることにつながる。
見栄など張ろうとせずとも、人は憧れられる可能性を十分に持っているのである。そしてその可能性は意図して作られたものではなく、人と関わるにあたっての当然の行為を行うだけでそうなり得るのである。

わかりやすい他者の物語の裏側に、全く理解し得ない混沌が渦巻いていることを、人は人と相対すると簡単に忘れてしまう。いや、忘れておかないと他人と関わることなどできないのかもしれない。
憧れとは、「それを忘れたことにしていることさえ忘れてしまった状態」のことを言うはずである。

ようするに憧れること、自分をなんらかのモデルケースなり、誰か身近な人なりそうでない人なりに近づけようと努力することは、ちょうど舞台でもなんでもないところで寸劇を始めるようなものであって、作りあげた物語でもって他人の理解を得ようと試みている彼の前提を無視し、また自らのうちに「物語のような」確固たる筋書きが存在しうるかのように思い込み、自らのうちにある混沌の中に自ら法則を見出そうと絶えず試みることをやめ、世界の外側にだけ見える物語と同化する試みである。そうしてそれは必ず例外なく失敗する。なぜなら、人間自身は物語ではないからである。

さて、なんの話をしていたのだったか。
そうだ、自分は自分が思うように、憧れるように、器用に手広く素早く賢くやれたりはしないのだから、やれるように力を振るうことだけを考えるべきだと言う話をしていたのだった。

なぜこうも疲れるのか。それは、無理をしているから、どこかの誰かの物語のように自分を動かし、自分の周りに働く力を認めようとせず、そのように生きているからである。
憧れた自分になり、物事が理想のとおり進むことを期待する代わりに、自分の思うだけのことをして、周囲の人間を真に自らと対等な力と自由意志を持った存在であることを認めるとともにその事実によりかかり、自分は自分の力の振るい方を調整することを考えればよい。

そう、自分の力の振るい方は自ら調整せねばならない。力を周囲に求められるがまま振い尽くしてはならない。
己の力の振るいどころがたったのひとつしかない人はいないか、いたとして、極端なプロフェッショナルとして自らの世話すら他人に任せるような人だけであろう。
力の振るいどころがひとつしかないことはあり得ない。あなたはそこにいるからといって、力のすべてをそこに振るうべきではない。
力を振るう方向とは、ただ一ヶ所における力の加え方を言っているのではない、世界すべてを対象として自らどのように力を働かすかをいうのであり、それはいくつもの場所で、地点地点でどのように自分を動かすかの判断が積み重なった結果の合力として表現されるものである。
余力はつねになければならない。余力がなくなるようなことをしては、別の場所で、好きな方向へ力を働かせることができなくなってしまう。

われわれは常に(自分ただ一人の主観の)世界を対象として力を働かせるのであり、その力の働く方向が、つまり各々の場所場所でどのように力を振るったかの総和が、望むべき結果でない場合、主観の世界はどんどん望まない方向へ動いていく。
われわれは主観の世界をつねに望む方向へと動かし続けなければ、望む場所へは辿り着けないのであって、そのためにはただ一つの場所で力の全てを振るうよりも、あちらこちらから、こつこつと力を重ねて調整することで、望むベクトルを得る方がよいのである。
なにせ世界と人生は巨大である。
どこが中心かもわからない。
どこを叩けばどう動くかもよくわからない。
ならば日々動いた方向を確かめ、今度は少しあちらへ、また今度は少しあちらへとやる他はないのである。

また、これは一体なんの話であるのか。
これは、ひとところにおいて全力を使い果たしては、進むべき方向からどんどん外れていく恐れが大きくなると言う話である。

これらの話を全て自分に言い聞かせ読み聞かせ、いわば書き聞かせているのである。
せっかく疲れて休むのだから、疲れないやり方を身にしみさせなければ。また疲れてしまう。