タコノキ

実がなる

スピノザ「エチカ」を読んでる(三)

定理一六: 物の定義を認識した知性は、特質を結論する。それは、その「物」の特質と言っているのだろうか?

定理一七: そういえば、自己の本性の必然性のみによって存在するものを「自由」といっていたのだった。神のみが自由ならば、人間は自由ではないのか?
備考に曰く、気になる記述がある。
結果と本質、存在と本質は異なる物であると。結果、と、存在、が同じ位置に置かれているから、だいたい同じものと見ていいだろう。

「神の最高能力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、すなわちあらゆるものが、必然的に流出したこと」
スピノザのいう神のありようが端的に表現される。

哲学書を読むときによくあることだが、突然現れた印象深いフレーズを妙に有り難がりたくなってしまう。まあいいか、実際良いことを言っている。
「例えば人間は他の人間の存在の原因ではあるがその本質の原因ではない。この本質は永遠の真理だからである。」
そうしたありがたげに思われるフレーズに誘われて、目が滑りまくっていた周辺の文をもう一度よく読んでみる。
神の知性は我々の知性と名前以外に何ひとつ共通するところがない、ということを筋道立てて説明しているということが遅れてわかる。
神の知性は我々の知性の存在の原因である。それだけならば、我々の知性と本質において共通しうる。他者が人の存在の原因であるように。
しかし、神の知性は我々の知性の本質でもある。で、あるがゆえにこそ、神の知性と我々の知性は、本質に関しても全く異なるのである。
と、言っている。
後段はなんだか矛盾したことを言っているように見える。実際おれは混乱している。

  • 神の知性の本質は、我々の知性の本質と同様ではない。
  • 神の知性は我々の知性の本質である。
  • 神の知性は我々の知性ではない。

こうして箇条書きにすると、すこしわかる気がする。

哲学書を読むのはエクササイズだと誰かが言っていた。このあたりを読み解くのは確かにそんな感じがする。

次の定理一八に、ヒントがある。
これによって先の備考で言わんとすることがわかる。
定理をヒントに備考で言ってることを理解しようというのはおかしい、ふつう逆かもしれないが、この本はそういうところがある。

定理一七の備考を頭をひねって読み解いたので、いっぺん定理三〇くらいまでざーっと読む。
読むのだが、定理二四あたりから少し様子が変わってくる。
素人が難しい本をざーっと読む限りの本当にテキトーな言い草なのだが、定理十一とか一二から定理二四あたりまでは、なんちゅうか、自明なことをあえて言ってやってるんだぜ的な、当然わかるだろうけど一応言っとくね的な、そういうフンイキの定理が多い。
神の存在とその無限性を証明したんだから、あとはわかるよね的な感じが漂ってくる。
あるいは、こうだ。
定理十一とか一二あたりで、神が唯一の実体であり、それは無限の属性からなり、世界の一切が神の様態であることをスピノザのいうとおりにひとまず了解しさえすれば、定理二四まではすんなり了解できるのである。たぶん。

さて、しかし、定理二四あたりからそのような、すんなりと了解できるフンイキは無くなってくる、という話をしていたのだった。
どんな具合かというと、このあたりから神以外の話が始まってくるのである。
その話ぶりがどうも、「〜できない」とか、神以外の存在が持ち得るとされていたものを否定するような定理がどんどん出てきて、神の無限性に発散していた話がここへきてキューっと神以外の、つまり我々の話へと収束してくる。
たとえば端的な、定理二九をとりあげてみる。
「自然のうちには一として偶然なものがなく、全ては一定の仕方で存在し、作用するように神の本性の必然性から決定されている。」
これなんか、かなりセンセーショナルだ。
『エチカ』と何ら関係なくこの定理だけ抜き出したとしたら、極端な運命論、決定論と思われてしまうだろう。
しかし、この定理がそうしたものでないことは、神の本性について少々ばかり考察したいまの我々にとっては明白なことである。
「神の本性の必然性から」というのがミソだ。そこさえわかれば、文字面から受ける印象ほど窮屈なことを言っているわけではないと思えるだろう。
しかーし、追い打ちをかけるように、定理三二、
「意志は自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。」
これは一般的な意味で言われる、人間の意志の自由を否定していると思っていいだろう(岩波文庫版『エチカ』の解説で、実際そんな話がされている)。
急速にシビアな感じになってきた『エチカ』第一部、残りの定理もあといくつか、大詰めではあるが電車が目的地に着くのでこのあたりで中断。