タコノキ

実がなる

散歩の癖、インターネットへの投稿

散歩の癖がある。ここではあえて癖という。
たとえば休日の特に予定のない時間、本でも読みに行くかと、雨も降っていないしでかけるとする。
すると歩いて一番近い店が混んでいる。ここで考えを変えて家に大人しく戻ってもよい。今日は家に誰もいないのだから静かだし、誰かの目を気にする必要もない。
それでもなんとなく外でコーヒーが飲みたい。コーヒーが飲みたいのはおれにとって外をほっつき歩く十分な理由になる。別に美味いコーヒーが飲みたいと言っているのではない。ただなんとなく家のテーブル以外の場所で、誰かがおれのために用意したコーヒーが飲めればそれでよい。
だらだら歩く。ただぼんやりコーヒーが飲みたいだけで歩くには少々長すぎる距離を歩く、確実に並ばず店に入れて、妙に気取ったりしておらず、席でキーボードを取り出しても変な目で見られなさそうな店を探す。
かなり歩いてルノアールを見つけた。いや、なんとなくこっちの方にはルノアールがあることが念頭になくもなかったが、ルノアールまで馳せ参じるつもりがはっきりとあったわけでもない。
来てしまったからには仕方ない、ルノアールに入ることにする。ルノアールちょっと高いんだけど、まあ、いいか。喫煙室もあるし。

紙巻きを週に一本吸うか吸わないかだが、煙草は好きだ。美味いと思って吸っている。
今や喫茶店では喫煙席の方が空いている。客の年齢層が結構高いルノアールですらそうである。おかげでまわりを気にすることがない。
厳重なる分煙施策によって人の多い禁煙席とはドア一枚挟んで隔たれ、ある程度静かな空間が保たれている。
ルノアールに入る時は煙草を吸っている方が得である。間違いなく。

紙巻きを吸う場所は喫煙席の中でもさらに隔離されている。
ここまでくると日常的に紙巻きを好んで吸う人は不満に思うだろうが、おれのようなたまの贅沢的な気分でおっかなびっくり吸っているようなやつにはちょうどいい。
紙巻きはうまいが席に座っている間じゅう副流煙を嗅いでいたいかといわれるとそんなこともない。なので、ちょうどいい。

メニューを開いてコーヒーの値段を見る。たけえ。でも甘いものとか軽くつまむようなものはそんなに高くない。
んじゃいっそ、と思って甘いもんも食べることにした。
むしろコメダに行く方が張り切って食いものをめちゃめちゃ頼んでしまうので、高くつく。
そんな感じで納得することにした。

さっき、席の上でキーボードを取り出す、といった。
この文章はPCで書いているわけではない。
iPhoneのメモ帳で、HHKBを接続して書いている。(HHKBはキーボードのブランド。ぜひブランドサイトを覗きに行ってもらいたい。かっこいい。)
いま、テーブルの上にはコーヒーと甘いパンと、水と、HHKBと、あとは空いたスペースに適当にiPhoneを放り投げてある。
キーボードからの文字入力は言わずもがなキーボードが最も大事であって、その打鍵結果の確認と変換にはiPhoneが十分に役目を果たしてくれる。
キーのリピート速度を早くして、キーボードの配列を正しく設定すればかなり快適な文字入力環境が得られる。
(設定の参考にしたブログ記事がこちら。同様の試みをするなら読んでみると良い https://goryugo.com/20200114/ipad-hhkb/

文を書くのは単純に楽しい。それがなんの喜びかはおれにはよくわからないが、とにかくごく単純に楽しいものであるとおれは思っている。
何も書くことがなくても単に楽しい。
好みのキーボードで打鍵するのが楽しい。
連なった文がやがて何かしらの展開らしきものを勝手に示し始めるのが楽しい。
文にひっぱられて次々と出てくるままに文を書くのが楽しい。
文を書くのは頭と運動の楽しみである。決して頭だけの楽しみではない。

遠方への散歩癖はここ1、2ヶ月なりをひそめている。
突然意味もなく生活圏から数十キロ外側へ一人で出てみたりすることはあまりない。
そもそもどうしてこの癖があったのか。
それはたぶん、仕事と雑事から離れる方法として、物理的にそれらからはるか遠くに行くことしか知らなかったからだと思う。
昔、特急列車の中で書いたらしいメモを読み返す。
「呪いは住居と土地にある」
これをいつ書いたのか覚えていない。
しかしこの時おれは、日常のすべて、仕事や家事やその他全ての雑事を呪いといい、それは自分が暮らす場所に根をおろすのだと考え、それらから離れるために特急列車にふらふら乗ったようだ。
今みると、はて、どうだろうなあと思う。
少なくとも今この時のおれは生活の全てを呪いと思ったりはしないし、そればかりか、それを呪いというのは全くもって妥当ではないとすら思う。非妥当な印象。ゾウを見てネコだというくらい、妥当ではない。

おれは誰かに呪われてなどいないし、おれを呪うとしたらそれはおれ自身に他ならないが、おれはおれ自身を呪う術など知らないはずである。

しかしまあ、当時、生活の全てを呪いと言って憚らなかったおれにとって、切実な逃避の手段として、ふらっと無計画に特急列車に乗ることが効果的であったことは認めざるを得ない。
何せおれはそうして生き延びているのである。

楽しみがすべて逃避でしかないところから、楽しみを単なる楽しみとして楽しむことを覚えようとしている。これは一つの生きるための術である。
十代の頃は文を書くことに幻惑的意味、悲壮的感覚、逃避的感情を持ち込みがちだった。
個人的な文を書く時はそうしないといけないと思っていた。
それは酒とかもそうだろう。
酒は酒を飲もうと思うから飲むだけであって、そこに酩酊による幻惑の希求、悲壮の増幅、あるいは逃避の作用を求めるのは不健康である。
同じように、文は文を書こうと思うから書くだけであって、幻惑、悲壮、逃避の一切は全く必要がない。
まして、読む人のことなど本来は考える必要が全くないのである。
しかしそれでも誰かに読まれることで、あるいは誰でも読める場所に置くだけで、文は文として、ただノートに閉じられているのとは全然違った様相を示し始める。

不特定多数に読まれることができる文を書く行為には、不特定多数に読まれようとする意志を必要としない。

これがインターネットに文章を投稿する行為の理解され難いところである。
人は、不特定多数の人間へ届けと願って文を投稿するのではない。だからといって、書いた文を投稿せずにもいられない。
文は端末からインターネットへ送信された瞬間自らの手を離れ、自らから独立した存在になる。
どちらかといえば欲しいのは、読まれることよりもこの感覚である。
そして第三者からの閲覧の可能性が高ければ高いほど、自分で書いた文は自分から独立するその度合い、独立の程度はどんどん強まっていく。
この強まりこそがインターネットに文を投稿することの喜びであるかもしれない。

自分で書いたものがもはや自分と関係なく作動している。文は読まれることで作動する。作動が可能であればあるほど、文は自己から独立した存在になっていく。
己の生み出したものが己の手を離れ、独立した存在になる。

ようは己の一部が引き離される。己の考えでしかなかったものが、可読で、決まった長さがある、明確な形を与えられる。
そうすることで、己の一部は己で保持する必要のないものになる。身軽になる。

文を書いて投稿して身軽になるのと、どこか遠くに出かけて身軽になるのは似ているのかもしれない。
遠くに出かけることで己は己の世間から引き離され、自分の身体はあらゆる基盤から引き離され、出かけた先で歩き回っているうちに疲れて頭もぼんやりしてきて……
究極的には、己自身を、己で保持できなくなる。
ただ目的地と帰路をさがして動き回るだけのものになる。
しかし当然のことながら己自身が己と共に動き回っていることには変わりがないので、己は己を引き離さんがために際限なく物理的に移動し続ける羽目になる。
だから、遠くへ行けばいくほど気分がよく、また、完全に満たされることもないのである。

真に己を身軽にするには物理的な身体の移動では用が足りず、己から生じるものを己以外の場所に置くことが必要である。
それが文を書き、インターネットに投稿することの健康的作用なのではないか。

だから、SNSのことを単純に軽蔑し、その利用者を承認欲求に突き動かされる愚かなものどもなどと見下す人は、インターネットへ何かを投稿することの意味を何一つ理解していない。
そもそも、SNSや掲示板への投稿などをはじめるのに承認欲求など全く関係がない。
だから、そうした場で承認欲求と殊更に口にするのも、インターネットに何かを投稿することの意味を全く理解していないがゆえの言動なのである。
己から独立したものが承認、評価されなければならない、というのは、奇妙である。
なぜなら、インターネットに投稿した時点でその投稿の動機はすでに十分満たされているからである。
評価されなければならないのはインターネットへの投稿をメシの種にしている人だけであって、ほとんどすべてのインターネットへの投稿は投稿されサーバーに保持された時点でその動機と役割を十分に果たしているのである。
そして、これを閲覧する楽しみが第三者にとって全く後発的に、無関係に生じてくるだけである。
そしてその第三者の閲覧によって生じる第三者の投稿への反応も、投稿そのものからは全く離れたところで、後発的に生じている。
ほとんど全てのインターネット上の何かしらの投稿サービスは、第三者からの反応を即座に確認できるように、また第三者からの反応が多ければ多いほど良いもののように見えるインターフェイスになっている。
しかし、投稿された作品がいかに第三者にとって優れたものであるかどうかと、インターネットへ何かを投稿する動機、欲求には、本来的に全く関係がないことを、我々ははっきりと理解しておかなければならない。

インターネットへの投稿は散歩と似たようなものだ、ということを述べた。その散歩の意味も、もしよければ、いまここから少々読み返してもらえばわかるかもしれない。

話は右往左往、手元にいったり遠くに行ったり、じつに変な文章であっただろう。
しかしこれも散歩である。散歩であるので、仕方ない。