タコノキ

実がなる

うわごと

自分にとっての享楽とは街をながめて歩くこと、ゲームをすること。
日々の享楽を十分に満喫しながら嫁とも仲良くやりぼくはどうやら人に振る舞っていないと我慢がならないようである。
飯をつくり嫁におでかけの提案をし友達と遊んであげる、左様遊んであげるというのは遊んで欲しそうにしてるから遊んでやるのである。
自分が遊びたいと思っていることがあまりわからない。友達と遊びたいと自ら思うことがあんまりない。けれど遊べば楽しいし、遊んだあとは救われた気持ちにもなる。だけど人を誘って遊ぼうと思わない。
それは自分一人で自分を救う方法をなんとなく知っているから。ようは、少し遠くに行って街をながめて歩けばそれだけで気分がよくなる。
そればっかりやっていてもいいけど、それだと、だめかな?あんまりだめな理由は思いつかない。だんだん一人になっていくだろうけど、生き延びられそうな気はする。
街を歩きまくろうと一人にはたぶんならない。なぜかって家で飯をつくるときと食べるときは嫁がそばにいるから。
最近おれが台所にいると近くにくるようになった。あるいは逆かもしれない。嫁が近くにいる時を見計らって台所仕事をするのかもしれない。いずれにせよ台所が幸せの源である。
食洗機は多分もう使わない。汚れ落ちが微妙だし洗い終わりの時間がいつになるか考えるのがめんどい。考えなくても手動かしゃ進むのである。それが家事のいいところだ。
享楽を満喫しながらも今の仕事が気に入らない。気に入らないのはわざわざ時間をかけて自分や好きな人以外のことを考えないといけないからだ。このおれが。
極端なことを言っているだろうか。いや事実ぼくは自分と自分の好きな人のことならなんぼ考えてもラクなのである。友達、嫁、家族。
家族というと家族LINEがある、テキストと写真でそれぞれの家族のそれぞれのことを報告しあっている。ぼくはどうでもいいと思って無視している。
どうでもよくなってしまうのはそれぞれの家族がどうでもいいからである。皆それぞれだ。家を出てまでそれぞれの家族でつながりを持つのも面倒だとならないのだろうか。一人自分が生きることにもっと関心はないのだろうか。家族団欒を全員家を出ても続けなければならないのだろうか。年老いた親は恩返しと介助をするためだけの存在なのだろうか。そうして形の変わった関係性をまだ家族と呼ぶのだろうか。
家族は好きだが家族という関係は面倒だ。人と人とが対等になることがない。兄は兄だし姉は姉だし親はいつまでも親だ。たぶん、下のきょうだいがいても同じだろう。
こんなこと言ってても会いに行けば楽しい。でも殊更に家族を強調されると嫌になる。家族旅行とかはあんまりやりたくない。
人を大勢集めるな。それに尽きる。
人は大勢集まると勝手に役割と居場所を見出してそこに落ち着こうとする。大人数ででかい部屋に泊まるとか最悪だ、みんな一人になれる場所を探し始めるに決まってる。
ひとりにならなくてもいいのが、人に会う一番の楽しみではなかったか。人の中で一人になれる方法を探し出したらこれほどつまらないことはないし、大勢の人間がいるとき、人は勝手にそんなことを考えるようになる。
おのおの結婚して家族が増えて、それで大勢連れてきて集まりたがる。全くよくない楽しくない。
家族みなと一同に会うのはいやだが、一人一人合うなら悪くない。こんど誘ってみてもいい。

友達を誘うことも覚えるべきだ。遊んだら楽しいのを知っているなら、自分から遊ぼうと誘うべき。
嫁に出かけようと言うことはできるのだから。