タコノキ

実がなる

1月7日〜1月13日

仕事中のおれは、そうでない日のおれとは全く別の回路で、全く別のものとして動いている感じがする。
普段出ない手癖が出る。背中で手を圧迫するような座り方。口元に手を当てていかにも考え込むような仕草。

眉間のあたりに常に力が入っている感じがする。シワが寄っているわけではないのだが、何か皮膚が張り詰めた感じがする。
そうして会議中に言葉を発するとき、おれはおれの仕事以外で知らない人と口をきくときのものの言い方を思い出す。それはよく似ている。

エレベーターの中で会社の人と世間話をする。なんでもいいことを言うと、彼はおれと似た笑い方をする。おれが、いつも、人と適当な世間話をする時の笑い方。
彼はもともと少しおれと似ているところがある。それもあるし、同じ場所で働いているのだから、ということもある。
この環境に、こうした人間を入れると、こういう反応をする、というのが定式化されているようだ。それもこれも、会社というものは人間に精神を求めないからである。

そもそも精神は誰かに求められるようなものではない。あるとしても、だれかの精神が強く輝いている様を遠くから見て励まされるものがいるくらいである。
身近な人間が精神を発揮することは、往々にして面倒である。


「あなた、大人になりきれてないのね」と妻に言われた。どういう流れの中で言われたのかは覚えていない。
これは日曜日に言われたことなので、日曜日を週の初めとするならば、今週は「大人になりきれない」の意味を考える週になるだろう。


遠慮のない人間の顔はよくない。自分は、自分の思うとおりのことをやるのだぞ、という気迫に満ちている。

しかし遠慮などしていては生きていられないのであって、健康にあろうとするならば、人は遠慮なく生きて行かざるを得ない。

遠慮してばかりの人の顔には魅力がある。話をするとき、その人の顔を見たくなる。しかしその人は健康的ではない。
遠慮のない人は一人で生きていくことができる。遠慮してばかりの人は、だれかに手を差し伸べてもらうばかりか、手を引いてもらわねばならない。

自分もすっかり偉そうに、遠慮なくふるまうようになった。おれはどんどん魅力を失っている。
そうした魅力とは別の種類の魅力が、人間に備わることはもちろんある。そうしたところを目指さなければいけない。


生活のために、生活に必要な金のためにやりたくもないことをやることを全面的に受け入れる(全面的に、というのは少々おかしい。というのも、やりたくない、という一点において仕事を否定することはやめないからである)。
または、周囲に好き放題文句を言いながらもやりたくないことを続ける。やりたくない仕事をしている時の態度はこの二つが極端だろう。

おれは、やりたいことをやらない限り、人に迷惑をばらまき続ける。やりたくないこともそつなくこなせるほど我慢強くはないし、手際が良いわけでもない。


仕事が嫌だ、ということについて、性懲りも無く、また詳しく書いてやろうというのである。
何年も思い続けまた自分のみならず広く思われ続けていることであるし、口癖の様に「仕事をしたくない」と述べる人は数多くある。

せっかくこれから自分の力を振るいに行こうというのに、それを面倒だのつまらないだのと感じるような状態にあるのならば、どれほどそうした人が世の中に多数いるとしても、それは深刻な不幸の状態であると言わねばならない。


だいたいなぜ先のことなど考えなくてはならない。先のことなど考えても心配になるだけではないか。目の前のことに没頭していればいくらでも時間を使いまた物事も前に進むというのに、なぜそうしてはならないのか。
仕事には常に予定というものがあり、その予定を管理する者がある。どうしてそんなことをするのか。予定をいくらこねくり回したところで、物事の進行に何一つ寄与することはない。
腹の立つことに、そのような者は己の権力を用いて、作業者にああしろこうしろと指示をしたりする。それも、自ら決めた予定を守るためである。
予定になどなんの意味があろう。物事はやっていればどうせそのうち終わるのである……
予定に対するもっとも素朴な批判はこのように書けるだろう。
何よりの問題は、おれがその予定をたてるものであることだ。


今朝は寝坊をした。目覚ましを止めた記憶もない。
昨晩はしっかり料理をした。料理をして、食い、片付けをした。料理に40分、食事に30分、片付けに40分、しめて2時間弱。
思いのほか疲れるのだろう。
そしてその後ゲームをしたが、これもまた疲れていたので楽しかったかと言われるとそうでもない。習慣的にやってしまった以外のものではないだろう。
こうした悪い習慣も、疲れていると歯止めが効かないのである。

しかしそうして、考えてみると、昨日は終業後30分ほど事務所でたむろしていた。もしあれがなければ、30分は早く家に着いた。
あれがなければ何か変わっただろうか。

知らぬ間にリズムを崩していた。いま、そうして、崩れたリズムの中にあるということ。どんなに元気を自覚していても、狂ったリズムの中で動き回っていることを忘れてはいけない。
リズムを取り戻すには休まねばならない。それができないなら、平坦なリズムをとり続けることである。


「抱え込まない」とは誰かに何か任せることとは限らない。自分がやろうとしていること、あるいは悩んでいることについて話し、それについて、他人の言葉をもらうことそのものを指すことがある。

このときの他人の言葉は、なるべく勝手なものであるとよい。こちら個人の事情を慮っては、こちらのエネルギーの発散を妨げてしまう。

状況をなんとなく聞いて、なんとなく思ったことを、だれに対する思いやりもなく、損得勘定などせず、率直に述べてもらうのが一番良い。そうした言葉こそが、おれの仕事を気楽にする。

全く抱え込みたくないからといって、全く抱え込むことを放棄してしまうのではない。あくまで一人でやる前提を放棄してはならない。一人でやるために、他人の視座を借りて楽をするのである。


自分のことについて書くことは自分に接近することである。


世の中は進歩すればするほどに貧しく弱くなる。
昔の人間の力強さが老いたものの口で語られ、また歴史にみて驚くような話があるのは、おそらく嘘ではない。われわれは長く、多く、繁栄すればするほど貧しい存在になっていく。

これは進歩の否定ではない。世間の進歩とはすべてそういうものであるといっている。そして、我々全体としてはそうした方向に進んでいく以外の一切のやり方を知らないのである。

だから個として完成する必要がある。己に必要なすべてを、一人でできるように、暮らしのすべては無理であるとしても、精神のすべてを一人で満たすことは今もまだ可能であると信じている。

予定など考えない。先のことなど考えない。目の前にあることにだけ没頭する。
たとえば、仕事中に中学以来の友人からの夕食の誘いのメッセージがくる。返事もせずに放っておく。やがて定時を迎える。これが没頭するということである。

何も、好きなことだから没頭するのではない。ただ、先のことを考えたくないから没頭するに過ぎない。
先のことを考えたくないだけのことを、自分はこれが好きだから没頭しているのだ、没頭するのは良いことだと言うこともできるが、それは自己への深刻な欺きである。
ただ先のことを考えたくないだけ、その「したくない」を満たすための行為など今の世の中にはいくらでもある。したくない、を満たせるから没頭するのであり、真に好きなことに没頭している場合こそ稀なものであると思う。


人生一生をかけて修行をする、永遠に問いつづける、などとよくいうが、その修行は意外と生きているうちに良いところまで終わり、あとは自分をいい感じに動かし、また見せびらかしていればよい、という風に生きることはできないものだろうか。