タコノキ

実がなる

人の話、人と話すこと

「面白い話」をしている人のそばで、その人の話し相手になるのは存外常に退屈なものだ。それとも、おれが人の話をうんうんと聞くのが嫌いなだけかもしれないが。
どうせ後者だろうと思わないで、この話の続きを聞いてほしい。
どこかの大学教授がラジオで釣りの話をしている。潮の読み方、魚の生態、餌の選びかた。おれは全く釣りをしないがとても面白い話で、釣りと魚を長いことずっと好きでいるこのおじさんのことを好きになりそうだった。
ラジオのMCは適当なところで相槌を打っている。それはもちろんラジオの放送として必要な要素だからそうしているのだが、この様子を見てつい先日の自分自身のことを思い出した。
昼飯を食いに妻と入った喫茶店のような店。店の中には車の模型やらカメラやら、店主の趣味の品が所狭しと並んでいる。飯を注文するや店主はそれらの品について語り始めた。
そこに並んでいる車はどれも、自分が一度でも運転したことがあるものなんだ、いや別になにも全部自分で買ったわけじゃないよ、まあその一番大きな模型のやつだけは自分で乗っていたけどね、そうそう車は買っても損することはないって言うよね、あれはね、古い車を500万円で買うとするだろう。すると売るときも500万円なんだ。なんならもう少し色がつくこともあるね。それに持っている間はいじる楽しみもある。良い買い物だった。そうそうここに飾ってあるカメラは昔仕事で使っていたものなんだ、そこにアルバムがあるから見ても構わない。昔キャンピングカーを持っていてね、云々。
書き連ねようと思えば店主の話を全て書き起こすこともできそうなくらい、鮮明に話の内容を覚えている。それはひとえに、店主の話が面白かったから、興味を引くものだったからである。
しかしあの場にいて、店主の話を聞きながら頃合いを見て相槌を打ったりああだこうだと興味を示して見せる時間は耐え難いほど退屈だった。いっそ店主の方も勝手に絶え間なく話をしてくれればいいものを、なんだか一つ話が終わるたびに妙な間をとるものだから気まずい沈黙を感じ、その合間合間に注文したオムライスを食べていた。店主の話を聞く間はオムライスがどんどん冷えていく。それが惜しいとしか思っていなかった。
それでも話の内容はよく覚えている。まあ、第三者的に見れば面白い話であるので、数日が経って、あの時間の当事者としての感覚が薄れてもなお、「第三者的」な記憶として残っているのだろう。話していて楽しいのと、話が面白いのは別の話である。
そういえば「面白い話をする人」というのも、それ自体、なんだか距離のある表現である。「話すと面白い人」よりも、はるかに距離がある。
面白い話などラジオで聴いていればよく、人と話をするときは面白い話を持っていく必要などない。誰でも、初めて会う人と話すときはぎこちなさがある。よく知った友人と会うときでさえ、手近に語り草がなければなにを話せばいいかもわからない。それは当然のことだ。当然のことなのだから、当然、そのぎこちなさを共に噛み締めなければならない。人は人に対して気さくであることが望ましいが、饒舌である必要はない。
人と人とが初めて出会った時には当たり障りのない話を、途切れ途切れ適当に、互いの邪魔にならないだけするので全然十分である。こうすることであなたの声色と顔はあなたが選ぶ言葉よりはるかに雄弁となり、過たずあなたの人柄を代弁するであろう。