タコノキ

実がなる

暮らしについて

外に出るとヘリの音がした。雲に覆われた月のあたりを飛んでいる。寒くなった。
商店街で買い物をする。がま口に小銭をたんまり入れて持ち歩く。軒先に並んだ商品を小銭と交換していく。

外に出て、家の様々な状況を思い出す。例えば冷蔵庫の中身、トイレットペーパーの残り数、スイッチを押し忘れた炊飯器のこと、等々。思い出しては足りない品を探して、買い物をして満たしていく、その様は散文的で、そこに熟考や逡巡はない。ただ瞬発的な思い出しと判断がある。
そうして過ごしていると、何かが頭に溜まっていく。書き起こしていくとスッキリする。自動的瞬発的な判断の中で、言葉になる余地もなかったさまざまな、思いつきともいえない思いつきが、肉を茹で上げたときに浮かんでくる脂のように頭にくっついている。
日々の生活とはじつに無際限の欲求と向き合い、満たしていくことである。己が己に求めることを己の手で満たしてはまた求められ、それが手を変え品を変え、暮らしている限り現れ続けるのである。
こうした欲求は魅力的なものではない。外からみてそうであるのはもちろん、当の本人にとってもそうである。体を綺麗にしたいが、風呂に入りたくない。腹は減ったが飯を食うのは面倒。汚い部屋で寝起きしたくはないが、掃除をしたくはない。当然のことである。
欲求を満たすための行為は別に楽しくない。だからといって人は欲求を無視できない。そうすれば死んでしまうからだ。つまらないけれど、そうしたことを行わなければならない。そこに至るには、いかに自分を大切に思っているかが大切である。
自分を大切にするために、面白くはないことをする。面白くはないことをどれだけ黙って、慌てず急がず行えるかが大事である。そうして行ってみれば不思議と、慌てる理由も急ぐ理由もひとつもないことに気がつく。もし、それでも慌てる理由があるのであれば、それは何かすごく大きなスケールで見て無茶をしているはずである。そして、その無茶から生涯逃れられないままでいる人もいる。そう言う人は自分の無茶がどれだけ深刻であるか気がついていないまま生きているはずである。
家で暮らすことは、自分の絶えざる欲求を自ら満たし続けることである。世の中にあふれる娯楽に比べたらなんの面白みもない。それでも、自分の欲求を満たしてやらねばならない。生じた欲求を無視することはできない。よしんば出来る気がしても、それは欲求を強い意識の力で押さえつけているだけであり、押さえつけるために意識の力が使われていることを忘れてはならない。
欲求の強弱でもって行動に優先順位をつけることは悪いことではない。もうすごく眠いから風呂に入らず寝て、明日の朝シャワーを浴びることにしよう、といった判断である。ときに、より弱い欲求をより強い欲求に優先させてしまうことがある。どうしてもトイレに行きたいが目の前のうまそうなものを食わずにいられない等。これは不幸な判断であるのでやめた方が良い。必ず、欲求の強さにしたがって行動せねばならない。
外で、家から遠く離れて何かをしている限り、家にいるときのように絶えざる欲求に悩まされることはない。旅行、趣味、人との会合、そして会社勤めに代表されるような、勤務という形の仕事。こうした活動は、人を生活から遠ざける。上述した通り生活に不可欠な活動とは面白いものではないから、離れることが気持ちよいのは確かである。だが、その、離れる時間が長すぎるあまり、自らの欲求へ誠実に向き合うことを忘れるようなことがあってはならない。
空になった歯磨き粉のチューブを押しては取り換えようともせず、いつまでも、何日もそうして水だけがついた歯ブラシで歯を磨いているお父さんの話を見かけた。あまりに愚かしいことだが、我々は彼を決して笑えない。これは決して笑い話ではない。彼は自らの欲求から離れている時間があまりに長く、またその距離もあまりに長く、おそらくは外で他人の都合ばかり聞いて生きているあまりに、自らの正常な欲求に基づく習慣をおろそかにしているのである。彼は悲劇に見舞われている。自らの欲求を粗末に扱うことは悲惨以外の何ものでもない。
自らを大切にすることがたとえ面白くなくとも、我々はそれをせねばならない。そして、娯楽の面白さだけが幸せではないことを知っていなければならない。

暮らしをくびきのように感じることがある。うまくいかないことがある。しかし、朝の光の中で見る部屋と、夜の明かりの下で見る部屋は、全く別の姿をしていることを知っていなければならない。だからあまり、同じ時間に部屋をじっと眺めてはいけない。
食うに困っていなくても、生活が立ちゆかないと感じることがある。何一つうまくいっていないと思うことがある。床に落ちているものが気になる。しわだらけのまま放り出された服が気になる。床に落ちている髪の毛が気になる。作ったはいいが、あまり食べずに冷蔵庫にしまわれた料理が気になる。この「気になる」は重大である。自分で自分の生活を思う通りに動かせていないと感じているのだから。
気になるのならば大いに気にすべきである。気にしても無駄であるとか、この片付け方法は誰かさんいわく効率的でないとか、そもそもよく考えればそのままにしても大した問題ではないなどと決して思ってはいけない。そんなことはあってはならない。大切なのは部屋が片付いていることでも、冷蔵庫に美味しいものが詰まっていることでもない。ただひとつ、部屋のようすに自分の思ったことが毎日、反映されていることのみである。自分がどう思ったか、ただそれのみを毎日努力して、部屋のようすに刻み込まねばならない。
思うほど部屋は広くない。家を開ける時間は長い。そのような中でどうしたら自分の思う通りに美しい生活ができるだろうかと考える。いいや、美しくある必要は無いのだ。寝て、食えればそれで充分である……そう割り切るわけにもいかない。そう割り切れたらどんなによかっただろうか。そんな割り切りは不可能である。部屋には常に、あなたの姿が刻み込まれていくのだから。あなたが本当に寝て食うだけの人間でない限り、寝て食うためだけの部屋が現れることはない。寝て食う以外にも何かすることができる部屋で、寝て食うだけの暮らしをするのはきっと苦しいであろう。自分の姿と、部屋の姿が食い違っているのだから。つまりそれは、自分が暮らすための場所ではないところで暮らしているのだ。
共に暮らす人の態度が気になる。どうしてあなたはいつもそうなのだと言いたくなる。あなたはただそうであるからそうなのだと、私はそう知っているにもかかわらず。そうであるあなたを好いていることが、ここでは忘れられている。だが、それを思い出すことがあることを拒んではならない。
夜に部屋でそんなことを思ったら、さっさと眠って、翌朝部屋を見てみると良い。夜に行ったあなたの、全くもって大したことのない片付けのおかげで、部屋は朝の光を受け入れているはずである。

例えば明日世界が終わるとする。その中でも私はいつも通り家の中で服をハンガーにかけたり、ほうきとちりとりで髪の毛を拾ったりするだろう。なんということはない。最初から明日の目覚めを積極的に望んでいるわけでもないのだから、いつも通り過ごすに決まっている。

ウォーターサーバーの営業電話が来た。水道水をガブガブ飲むからいらないと断った。これでこの週2度目である。
電話の主は引越しで関わった諸々の業者たちである。どの業者であったかは忘れた。どれにせよ、ウォーターサーバーとは縁もゆかりもない会社である。いったい何故そのような業者からウォーターサーバーを勧められるのだろうか。
住まいを移すというのはとてつもない面倒、煩雑、重労働である。中でも、さまざま業者のお客様とならねばならないのは特に面倒である。引っ越し業者、不動産仲介、電気ガス水道インターネット、等々。私はお客様として頑張っていたと思うが、彼らに大変世話になったのは事実である。だが今、見知った番号から突然電話がかかってきて、何かと思い乗りかけた電車を降り、電話をかけ直してみれば無用なウォーターサーバーなぞ急に電話で勧められた。冒頭の言葉を電話口の相手に浴びせたころには電車のドアは閉まっていた。
私はたいへん親切にしてくれた彼らの会社名と担当者の名前とをきちんと覚えているつもりであった。こんな目に遭ったから全部忘れてしまった。どれだけ引越しが面倒くさいと言ったって、世話になった会社の名前と担当者の顔くらいは覚えているつもりだったが、こんなくだらない電話で私の着信履歴に番号を残し、注意を引き、かけ直させ、ウォーターサーバーの話である。最低最悪の営業体験と言わざるを得ない。
引っ越しというのは何度やっても面倒で、面倒を乗り越えても煩雑で、煩雑に耐えても苦労が舞い込み、様々な連中が様々な方法でわれわれの財布から金を抜き取っていく。だが彼らは皆愛想良くテキパキと仕事をしてくれた。特に今回利用した引越し業者などは極めて良心ある対応をいただき大変に素晴らしかった。ところで、見積もりをとった別のもう一社は、見積もりを頼むや泣き落としのようなやり口でこちらに仕事をよこせと言ってきたからまったく不快であった。こちらとて電話の向こうにいるのが日々仕事で駆けずり回るわれわれと同じ一市民なのは知っているのだから、泣き落としを断るのだって労力がいるのである。勘弁してほしい。
それにつけてもウォーターサーバーである。これだけついでのように勧められるということは、そうして勧められた製品を家には絶対に置くべきでないということだろう。きっとただ市場に流すだけではぜんぜん売れないので、なんらかの伝手でもってさまざまな業者に取り入って、あわよくばご家庭に忍び込みたがるのである。一昔前のパソコン用ソフトウェアの、インターネットエクスプローラ用ツールバーを思い出す。
連中の決まり文句は「永年無料」である。当然無料なわけがない。水の補充に金がかかることは、電話口では決して言わないのである。どうやら連中はものを買わせようというのではなく、なんとか騙くらかしてウォーターサーバー本体を家に置かせて、やがてまあせっかく置いているのだし、替えの水でも頼んでみるかな、というなりゆきを期待しているのかもしれない。ろくでもない仕事というのは、本当にこの世にいくらでもあるのである。