タコノキ

実がなる

寝床より - 体について

マッサージの心地よさとは筋肉なりなんなりがほぐされるのが本分ではない。技術を伴う強い刺激によって、己の身体を誰かさんに支配されるこの喜びこそが本分なのである。
血流が良くなるとかなんだとかはついでの効能にすぎない。しっかりと強さがありながら、決して不快にならない刺激によって、己の感官を施術者の手のひらに委ねることこそマッサージというものの醍醐味である。
自分の体の操縦を放棄して、他人のリズムの中に身体を放り投げ、言われるがままに姿勢を変え、施術者の刺激に対してどこが痛いとかどこが気持ちいいとか応答する自分の体をただモニタリングする。
いわば己自身が己の体のたんなる観測者となり、加えられる刺激に対してどのように己の体が応じるか、それだけに集中することができるのが、マッサージという場であると思う。
おれは健康診断やら注射やら献血やらにもこれに近い気持ちよさを感じる。そこではおれはただ指示通りに動きまた安静にして、医師なり看護師なりの理想的な肉体的状態を保つことが求められる。このとき、己の体の所有権は一時的に自発的に手放され、体はただ他者の望むがままに動かされざるを得ない。
体に針を刺されても、おれは気分がいい。
献血で血を抜くための結構太めの針を刺されてチクっとしても、おれは血を素早く抜かれるために最善の努力(献血でベッドに横になる時、足先をモニョモニョ動かしたりすると血行が良くなり血液の採取が捗るのだという)をする。帰りにはアイスももらえる。

毎日二十四時間三百六十五日休まず自分の体を操縦してなどいられない。それは眠るときでさえ、眠るという意思を持たねば眠られないのであって、つまり眠りは自分の体の操縦権を手放すことにはならないということである。
己の体の操縦権は、信頼のおける人間がそばにいることによってのみ手放すことができる。そしてこれを手放すことは、至上の安らぎとなり得るものである。
自分の体を自分で動かしていると、だんだん自分が嫌になってきたりする。疲れてくるし、思うほど自由には動かない。動くというのはいわゆる運動だけではなく、話したり、考えたりというのも含まれる。
ところで、話すこと、あるいは黙考することは確かに自分の意思で行われている感じがするのだが、書きものは違う感じがある。なにか、自動的な連鎖に身を任せるような、そんな感覚がある。
書かれたものはもはや書かれたものであり、自分から切り離された何かである。切り離された何かを見てある程度自動的に連鎖していくものが、そんなものがまた己の手によって書き込まれていく。このとき、己の体の操縦はフルオート寄りのセミオートであって、マニュアルではない。
だから物を書くのも気持ちがいいのである。