タコノキ

実がなる

歳末のよろこび(二)

月日の経過を正しく体感する術はない。月日の経過を振り返るとき、それはいつも短すぎるから長すぎるかで、「よし、予感どおりにあれそれの日から十日経った。あの日から今日まで十日とは実にしっくりくる」とはなり得ない。十日間を振り返るときは必ず「まだ十日しか経っていないのか」「もう十日経ったのか」のどちらかになる。
というよりも、月日の経過を思うとき、われわれはいつもその日々になにかしらの感慨を覚えている。その感慨の現れようとしてひとつ、「もう」「まだ」といった長さの程度を述べるのであろう。そしてその述べられかたはいつも、己の体感と逆になるなあ、ということを言うのである。月日に対する感慨を述べるとき、われわれはこの形しか取りえない。
「もう」と「まだ」の違いはなんなのだろう。忙しく過ごすと日々が早く過ぎるとよく言うが、予定の詰まった一週間を過ごすと「まだ一週間しか経っていないのか」と思うこともある。あの夢のような日が昨日のことのように思い出されるなどとよく言うが、思い出せるのはほんの一部に過ぎなくて、だいたいのことは忘れてしまっているかもしれない。結局「もう」も「まだ」も、両方ともただ一つの月日への感慨をたまたま片方の言葉で述べているに過ぎなくて、つまり月日への感慨とは、時の過ぎ去ったことと、過ぎ去った時を思い出すことが可能なことの両面を持つ、ただひとつのものであるのだと思う。何かが月日とともに過ぎ去った、その過ぎ去った事実を思う時、人は「もう」と言う。自分の中に思い出せる何かがあり、思い出せる事実を思う時、人は「まだ」と言う。
「もう」も「まだ」も、感慨なしにはあり得ない。いつのまにか一年が終わってしまったと考える時、人は一年とともに過ぎ去った何かのことを思っている。この「いつのまにか」を上回る年末の酒の肴はない。何かが過ぎ去る前、そこには何があったのか。それらが過ぎ去っていこうとする今、ここには何があるのか。そうしたことをうまい飯でも食いながら思ってみるがいい、というのが日本の年末の過ごし方であると思う。おれはそんな年末が大好きである。

時が過ぎてゆく。世界はますます悪くなるかもしれない。大事なものは失われるかもしれない。未来はいつも無責任な不安ばかりをわれわれに投げつけ、そのくせそんなものはどこにも存在しないのだから甚だタチが悪い。
年の終わりが控えている。それ以上先のことはない。それが師走の末のいいところなのだ。