タコノキ

実がなる

スピノザ「エチカ」を読んでる(三)

定理一六: 物の定義を認識した知性は、特質を結論する。それは、その「物」の特質と言っているのだろうか?

定理一七: そういえば、自己の本性の必然性のみによって存在するものを「自由」といっていたのだった。神のみが自由ならば、人間は自由ではないのか?
備考に曰く、気になる記述がある。
結果と本質、存在と本質は異なる物であると。結果、と、存在、が同じ位置に置かれているから、だいたい同じものと見ていいだろう。

「神の最高能力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、すなわちあらゆるものが、必然的に流出したこと」
スピノザのいう神のありようが端的に表現される。

哲学書を読むときによくあることだが、突然現れた印象深いフレーズを妙に有り難がりたくなってしまう。まあいいか、実際良いことを言っている。
「例えば人間は他の人間の存在の原因ではあるがその本質の原因ではない。この本質は永遠の真理だからである。」
そうしたありがたげに思われるフレーズに誘われて、目が滑りまくっていた周辺の文をもう一度よく読んでみる。
神の知性は我々の知性と名前以外に何ひとつ共通するところがない、ということを筋道立てて説明しているということが遅れてわかる。
神の知性は我々の知性の存在の原因である。それだけならば、我々の知性と本質において共通しうる。他者が人の存在の原因であるように。
しかし、神の知性は我々の知性の本質でもある。で、あるがゆえにこそ、神の知性と我々の知性は、本質に関しても全く異なるのである。
と、言っている。
後段はなんだか矛盾したことを言っているように見える。実際おれは混乱している。

  • 神の知性の本質は、我々の知性の本質と同様ではない。
  • 神の知性は我々の知性の本質である。
  • 神の知性は我々の知性ではない。

こうして箇条書きにすると、すこしわかる気がする。

哲学書を読むのはエクササイズだと誰かが言っていた。このあたりを読み解くのは確かにそんな感じがする。

次の定理一八に、ヒントがある。
これによって先の備考で言わんとすることがわかる。
定理をヒントに備考で言ってることを理解しようというのはおかしい、ふつう逆かもしれないが、この本はそういうところがある。

定理一七の備考を頭をひねって読み解いたので、いっぺん定理三〇くらいまでざーっと読む。
読むのだが、定理二四あたりから少し様子が変わってくる。
素人が難しい本をざーっと読む限りの本当にテキトーな言い草なのだが、定理十一とか一二から定理二四あたりまでは、なんちゅうか、自明なことをあえて言ってやってるんだぜ的な、当然わかるだろうけど一応言っとくね的な、そういうフンイキの定理が多い。
神の存在とその無限性を証明したんだから、あとはわかるよね的な感じが漂ってくる。
あるいは、こうだ。
定理十一とか一二あたりで、神が唯一の実体であり、それは無限の属性からなり、世界の一切が神の様態であることをスピノザのいうとおりにひとまず了解しさえすれば、定理二四まではすんなり了解できるのである。たぶん。

さて、しかし、定理二四あたりからそのような、すんなりと了解できるフンイキは無くなってくる、という話をしていたのだった。
どんな具合かというと、このあたりから神以外の話が始まってくるのである。
その話ぶりがどうも、「〜できない」とか、神以外の存在が持ち得るとされていたものを否定するような定理がどんどん出てきて、神の無限性に発散していた話がここへきてキューっと神以外の、つまり我々の話へと収束してくる。
たとえば端的な、定理二九をとりあげてみる。
「自然のうちには一として偶然なものがなく、全ては一定の仕方で存在し、作用するように神の本性の必然性から決定されている。」
これなんか、かなりセンセーショナルだ。
『エチカ』と何ら関係なくこの定理だけ抜き出したとしたら、極端な運命論、決定論と思われてしまうだろう。
しかし、この定理がそうしたものでないことは、神の本性について少々ばかり考察したいまの我々にとっては明白なことである。
「神の本性の必然性から」というのがミソだ。そこさえわかれば、文字面から受ける印象ほど窮屈なことを言っているわけではないと思えるだろう。
しかーし、追い打ちをかけるように、定理三二、
「意志は自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。」
これは一般的な意味で言われる、人間の意志の自由を否定していると思っていいだろう(岩波文庫版『エチカ』の解説で、実際そんな話がされている)。
急速にシビアな感じになってきた『エチカ』第一部、残りの定理もあといくつか、大詰めではあるが電車が目的地に着くのでこのあたりで中断。

献血の楽しみ

外に出たら雨が降り出した。最近暖かいと思ったら急に寒くなる。冷たい風を浴びながら歩いていると駅に着いた。
ホームに入ると雨が電車のあたまを叩いている。空には雲が立ち込めてしばらく止む気もないという。
献血に来た。街頭で赤十字の人が呼び込みをしていたし、どこも行くところがなかったからだ。時間のあるかた是非、と呼ばれたので、時間があるから行くことにした。
別にどこにも行きたくないのだ。なら、求められるとおりに献血ルームへ行き、快適な部屋で、言われるとおりに身体を動かして針を刺されて血を抜かれれば、人のためになるのだから、そうしたほうがいい。
ここで献血は何度もしたことがあるし、わざわざ聞くまでもないのだが、
「全血ってまだ受付やってますか」
と、街頭のお兄さんに声をかける。これはせっかく呼び込みをしてるんだから、その呼びかけに反応して今から献血ルームへ吸い込まれる人間がここにいる、その甲斐を感じて欲しいなんて思ったからだ。
余計である。まあ、わかっている。
献血ルームでは血を抜かれる前に体調を聞かれ、その他問診がいくつかある。あと、水分は十分取ったかと、これは念入りに聞かれる。全血400mlの提供なら、その血に含まれるだけの水分が体から抜けるわけであるから、ということだ。
おれは備え付けの紙カップ飲料機で水とお湯を手にして、それらを混ぜてぬるま湯にし、すばやくカップ2杯分の水分を摂取する。献血ルームにおけるひとつの水分補給のテクニックである。
繁華街のど真ん中の献血ルームはふだん、休日はそれなりにいつも人がいて、問診などは5分くらい待つこともあるのだが、週の半ばの半端な休み、献血に行こうという人も少ないので、何の待ち時間もなくベッドへ横になった。
なるべく左腕でやってほしいとたのんだので、左腕の肘の裏が手際よく消毒される。チクッとしますよーの声と共に慎重に針が刺される。相変わらずおれはこの瞬間そっちを向いていられないほど針が苦手なのだが、痛み自体は大したことはない。
血を抜かれているあいだ、左肘の裏に針を感じながら足首をモニョモニョ動かして血流をよくする。これもスムーズに血をとるためだと以前教えてもらったので、言われる前にやり始める。
血が半透明のチューブを通って何らかの機械に向かってゆく。血が400ml出るなどただ事ではないのに、それをボケーっとのんびり眺めている。ちょっと楽しい。
血を抜かれるのはただ事ではないので、そこにいる医師看護師赤十字のみなさんは常に真剣で、手際よく、戸惑うことひとつたりとてなく、十分な訓練を経てきたのだろう彼らに、おれはただ身を任せてハイ、ハイ、ありがとうございます、と言っている。ちょっと楽しい。
血を抜き終わると必ず20分はここでゆっくり休むように、と伝えられる。そのお供にアイスクリーム、クッキー、せんべい、紙カップ飲料機の飲み物がいただけるわけである。
ゆっくり休めと言われたからには、ゆっくり休んでゆっくりアイスを食い、あったかいものを飲み、棚にあったハンターハンターの適当な巻を読むほかない。なににも遠慮なくゆっくりできる。何せ400ml血がなくなったのだ。水分等々補いながらゆっくりせねば具合が悪くなってしまうかもしれない。
ようは、この20分間だけは、小学生の時に、わずかばかりの熱を出して、全然ヘーキだけど学校休んでハンターハンター読んで、アイス食べてたあのときとだいたい同じ気分になれるわけである。
小学生ハンタ読まんかな。おれは読んでた。天空闘技場はおもろかったけど、次のヨークシン編は全然話わからんかった。でもゼパイルの贋作講義は超ワクワクした。どうでもいいな。
何もしたくないときってのは、自分で自分の身体を動かすのがヤになる。動きたくないので家でゴロゴロする。ここで眠れればよいかもしれないが、眠れもしないとただただ退屈で、もっと動きたくなくなる。
そういうときにはいっそ献血にでも行ってみるとよい。信頼に足る技術をもった人々に身体を預けて、水を飲んだだけで医療に貢献できる。そして血を抜かれ終われば、ただの退屈な休みは、たちまち学校を休んだあの感じ(いまいち共感し得ぬ方は『ちびまる子ちゃん』のまる子が学校を休んだ回をご参照いただきたい)に変わるわけである。
何十回か献血をすると国だか赤十字だかから立派な杯を授かるらしい。それが欲しい。

帰りがけ、スーパーに寄って買い物をして野菜やら何やらで重いカゴを持ち歩いたらちょっと具合が悪くなった。やはり休まねばならない。
今日は残り一日、のんびりしてよいわけである。

うわごと

自分にとっての享楽とは街をながめて歩くこと、ゲームをすること。
日々の享楽を十分に満喫しながら嫁とも仲良くやりぼくはどうやら人に振る舞っていないと我慢がならないようである。
飯をつくり嫁におでかけの提案をし友達と遊んであげる、左様遊んであげるというのは遊んで欲しそうにしてるから遊んでやるのである。
自分が遊びたいと思っていることがあまりわからない。友達と遊びたいと自ら思うことがあんまりない。けれど遊べば楽しいし、遊んだあとは救われた気持ちにもなる。だけど人を誘って遊ぼうと思わない。
それは自分一人で自分を救う方法をなんとなく知っているから。ようは、少し遠くに行って街をながめて歩けばそれだけで気分がよくなる。
そればっかりやっていてもいいけど、それだと、だめかな?あんまりだめな理由は思いつかない。だんだん一人になっていくだろうけど、生き延びられそうな気はする。
街を歩きまくろうと一人にはたぶんならない。なぜかって家で飯をつくるときと食べるときは嫁がそばにいるから。
最近おれが台所にいると近くにくるようになった。あるいは逆かもしれない。嫁が近くにいる時を見計らって台所仕事をするのかもしれない。いずれにせよ台所が幸せの源である。
食洗機は多分もう使わない。汚れ落ちが微妙だし洗い終わりの時間がいつになるか考えるのがめんどい。考えなくても手動かしゃ進むのである。それが家事のいいところだ。
享楽を満喫しながらも今の仕事が気に入らない。気に入らないのはわざわざ時間をかけて自分や好きな人以外のことを考えないといけないからだ。このおれが。
極端なことを言っているだろうか。いや事実ぼくは自分と自分の好きな人のことならなんぼ考えてもラクなのである。友達、嫁、家族。
家族というと家族LINEがある、テキストと写真でそれぞれの家族のそれぞれのことを報告しあっている。ぼくはどうでもいいと思って無視している。
どうでもよくなってしまうのはそれぞれの家族がどうでもいいからである。皆それぞれだ。家を出てまでそれぞれの家族でつながりを持つのも面倒だとならないのだろうか。一人自分が生きることにもっと関心はないのだろうか。家族団欒を全員家を出ても続けなければならないのだろうか。年老いた親は恩返しと介助をするためだけの存在なのだろうか。そうして形の変わった関係性をまだ家族と呼ぶのだろうか。
家族は好きだが家族という関係は面倒だ。人と人とが対等になることがない。兄は兄だし姉は姉だし親はいつまでも親だ。たぶん、下のきょうだいがいても同じだろう。
こんなこと言ってても会いに行けば楽しい。でも殊更に家族を強調されると嫌になる。家族旅行とかはあんまりやりたくない。
人を大勢集めるな。それに尽きる。
人は大勢集まると勝手に役割と居場所を見出してそこに落ち着こうとする。大人数ででかい部屋に泊まるとか最悪だ、みんな一人になれる場所を探し始めるに決まってる。
ひとりにならなくてもいいのが、人に会う一番の楽しみではなかったか。人の中で一人になれる方法を探し出したらこれほどつまらないことはないし、大勢の人間がいるとき、人は勝手にそんなことを考えるようになる。
おのおの結婚して家族が増えて、それで大勢連れてきて集まりたがる。全くよくない楽しくない。
家族みなと一同に会うのはいやだが、一人一人合うなら悪くない。こんど誘ってみてもいい。

友達を誘うことも覚えるべきだ。遊んだら楽しいのを知っているなら、自分から遊ぼうと誘うべき。
嫁に出かけようと言うことはできるのだから。

スピノザ「エチカ」を読んでる(二)

思うこと

通勤電車の中でヤな気分になりながら、ふと思う。
いくつかの定義、いくつかの公理を踏まえ、十数の定理によって存在することが証明されたスピノザ的神の実体は、はたして何の救いになるのであろうかと。
われわれ俗人が神と口にするときはいつも、その神がどのようにしてわれわれを救ってくれるのかが問題になるわけである。
無限の属性を持つただ一つの実体。人間的意志などそんなものはもっておらず、世界は全てその実体の変状である。
なんだかすごそうだが、さて、こんな神がいったいなんの救いになるというのだろう。

旧来的な神、人間的感情、意志をもつ全能の存在。われわれを「作りたもうた」存在、われわれに無限の慈悲を、慈しみの視線とともに与えるはずだったこの存在。
そんなふうな救いの神、われわれと同じ人間的意志でもって人間救おうとして救うなにかがどこかに存在し、われわれを見守っている。
そうした信心をどうしてわざわざ否定する必要があったのか。
それも、ついでではなく、本の第一部において、これから展開する哲学の前提としてまずもって否定しなければならなかったのか。

救いの神がいることくらい、誰でも信じてよかったはずだ。いつか天から人のための奇跡が人に手渡され、限りない幸福を得ることを信じて日々の労苦に耐える人々がいたはずである。
だがしかし、こうした心持ちで生きる人々が人間の自由から最もかけ離れた人々であると思っていたからこそ、スピノザはあえて開口一番、や、そんなのは違う、と言ったのではないだろうか。
と、不束にもおれなんかはそう思う。

スピノザがこの部で言わんとする真の観念の真逆のありようとは、だいたいこのようなことになるだろう。

有限の実体、無数の実体、分割可能な実体にかこまれ、それぞれがばらばらの本性をもつ混沌極まる世界におのれがあると認識する。それらはみな造物主たる意志のもと、神の作りたもうたものである。
しかし、それらをどうして神が作ったのかはさっぱりわからない。わからないがきっと、この世にあるのだから、神は人をきっと、わたしが神を愛そうと努める通りに、わたしを愛しているのだから、意味のあるものなのだろう。
やがて神はわたしに手を差し伸べるにちがいない。と、信じて生きる。

なんだかまあ悲愴な感じがして、人間ちゅうのは無力よの、と言いたくなってしまうし、哀れみつつ応援しちゃうような、そんな世界観である。

スピノザ曰く、物体的実体は無数にあり、ばらばらであり、有限であるが故にいくらでも分割可能であるというその認識自体が、真の神の観念を捉え損なっているのだという。
いやあそうはいってもまんじゅうは半分に割ったら半分になるしなぁ、なんてふざけたことを考えながら、帰りの電車に乗りかかると、ひとつ気に入らない広告がおれの目に入ってきた。

「クラフトビールうまい。今まで何杯損してたんだろう」

この、「今まで何杯損してたんだろう」、これが絶妙におれの神経を逆撫でする。なんでかなぁと思う。
クラフトビール以外のビールをうまいうまいと、また時には別にうまくもねえなと思いながら飲むこと、それが損だというのかよ、という怒り。
というのとは、また、異なって、
この「今まで何杯」というのは、有限的ちゅうのか、人生で飲めるビールはトータル何杯、みたいな、人生ン十年として全部で何日、毎日飲むと肝臓が壊れて死んでしまうから、週に二日は飲まないこととして、たまにビール以外のもんも飲むとして……みたいな勘定と根底を同じくするわけだ。
同じような文句は他にもある。
毎朝五分の習慣も、一年続けたら?まあ何分かわかんないけどそれだけ積み重ねればまわりと差がつきまっせ、とか。
一日五分なんて一日五分以外のなんでもなかろうに、なんて、おれはいっつも思う。
そんな足し算みたいに能力が積み重なるなら苦労せん、とか言いながら、おれはイヤイヤ仕事してるわけだ。追い越すみなさんはどうぞ追い越してもらってかまわん。
話がそれた。
ともかく、五分を積み重ねて五百分、みたいなのも、人生のビール全体に占めるクラフトビールの割合を勘定するのもどっちも、時間やビールを有限で、分割可能で、足し算したり割り算したりできて、そんいうもんだと考えてるわけだ。
おれはこれ本当に気に入らん。
時間にせよビールにせよ、そんなもんだっけ、時間やビールの本質がそんなもんであって、お前本当に嬉しいんけ、と思う。

「水は水である限りにおいて分割される」
「しかしそれが物質的実体たる限りにおいてはそうではない」
「その限りにおいては水は分離されも分割されもしない」
「さらに水は水として生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない」

時間もビールも「時間」であり「ビール」である、つまり水である。
われわれは水を水として見ることしかできないのだろうか。そんなことはないだろ。

そんな話を、スピノザさんはしてんじゃねえかなぁ。
以上、などと、ビール一杯で酔っぱらい気味のおれは、思うわけである。

スピノザ「エチカ」を読んでる(一)

はじめに

この記事は岩波文庫 青615-4 「エチカ」を読んでいる時のメモであり、実況的な思いつきです。
ほとんど自分のために書いているので、「エチカ」が手元になければ何を言っているのかさっぱりわからないと思います。
けれども願わくば、偶然、手元に「エチカ」がある人は、ぜひとも「エチカ」を取り出して一緒に読んで欲しい。一緒に読んでくれる誰かを頭で思い描きながら書いているものでもあるから(そして、たとえそういう人が一人もいなくても、思い描くだけで楽しいので、そうしているのです)。

岩波文庫上下巻、あわせて六百頁くらい。
死ぬほど長い本ではないですし、読み解くのは大変でも、読むだけならそんなに大変ではないです。
それに訳者の序文がとてもいい。壮大なる「エチカ -倫理学- 」へのイントロとして、これほど心躍らせる序文があることがとても嬉しい。ドラクエ序曲くらい、すばらしいイントロです。
よろしければ岩波文庫版「エチカ」をお手に取ってはいかがでしょう。岩波文庫の棚の青いとこにあります。カタカナ三文字見つけやすいです。

この記事は読み終わるまでたぶん続きものになります。
「エチカ」を読み始めてなんですが、僕はこの本を徹頭徹尾最初から最後まで精読するとは思ってない。たぶんどこかで読み飛ばしたり、解釈を諦めたり、変な読み方で無作法に面白がったりすると思います。
そういう様子がバンバン書かれるので、ご不快に思われたら、読まなくてよいです。
難しい本を素人が読むとこうなるもんです。スピノザ読解に一家言あるような人がもしいらしたら、このブログはおすすめしません。

僕の願いはこうです。
何となく「エチカ」を読み始めたあなたが、本を閉じたその少し後、「エチカ」という本に付されたコメント、それもニコニコ動画のばーっと流れてくるコメントくらいの感覚で、この記事を読んでくれること。

第一部

定義
  • 一: やがてそのうち、神は自己原因的なものである、という話になるのだろう。
  • 二:
  • 三: 概念が存在するために十分なもの。
  • 四: 実体の本質そのもの、とは言ってないようだ。あくまで知性の知覚。
  • 五: 「他のもの」が関係あるのだろうか?「他のもの」が考え得る、実体のさまざまな姿ということだろうか。
  • 六:
  • 七: 素人なので、早計にも、もうこの一定義から深くありがたいメッセージを読み取りたくなってしまう。
  • 八: 永遠なるもののみから成るのであればそれも永遠性をもつ、当然のことを改めて述べた感じのおまけ的言及にみえる。
  • 九:
公理
  • 一:
  • 二:
  • 三:
  • 四:かなりこれは認識のことを高く信じている感じがする。結果を見ても原因がわからないことなどいくらでもある気がするが、そうではないのだろう。
  • 五:
  • 六:
  • 七:
定理
  • 定理一:
  • 定理二: えっ?実体は自己で完結するということか。
  • 定理三: 公理四がそういうことではないのがわかった。
  • 定理四: 物、実体、変状。それ自身のうちにある、はわかるが、他のもののうちにあるとは一体どういうことか。ここで、定義三と定義五が対の表現になっていることに気がつく。
  • 定理五: その変状でもって複数の実体を区別することはできない。
  • 定理六:えっ?なるほど
  • 定理七,八: 「サビ」って感じ。
  • 備考二: 実体には始めがない。実体は個々に特有の属性をもっている。属性は実体間で共有され得ない。実体はそれ自身によって考えられるものである。様態的変状は実体のうちにあるものではない。なんとなく実体から生じ、表面を覆うもののように思っているがそれでいいのだろうか。
思うこと

様態的変状の本質はどこか他の物の中にあり、その物によって様態的変状のさまを考えることができる。
実体の存在という真の観念をもちながら、それを疑うことはあり得るという。しかしそれは不条理なことであるという。なぜなら実体の存在は真の観念なのであるから、らしい。
実体ちゅうのは絶対にあるんだから、疑う余地はなかろうと。なるほど。
定理八の備考は、かなりこちらの興味をひいてくる。なにせ、ここで初めて「人間」という最も興味ある対象を表す言葉が出てくるのだ。
曰く、同一本性を有する実体はただ一つしか存在しない。では人間一人は実体なのだろうか?それとも、人間という実体の変状なのだろうか。
あえてこの備考で人間二十人とかいうすごく興味を惹く言葉を用いているのは適当やたまたまではないだろう。
この備考二で述べることは、おそらくこうだ。
この二十人は本性を同じくする多数の個体であり、その存在には必然的に外部の原因がある。外部の原因があるということは、自己原因ではない。つまりそれは実体ではない。と、いっているはず。
では、定理に戻ろう。

  • 定理九,十,備考: なるほどこの部の言いたいことが見えてきた。自然において実体とはただ一つ、先に述べた神のみであるという話になるのだろう。
思うこと

実体は属性により構成されると知覚される。実体とはそれ自身によって考えられるものである。よって、属性は属性自体によって考えられる。
さっきから繰り返している「それ自体によって考えられる」とは、自己によって自己に言及できる、つまり自己原因と意味を同じくするであろう気がする。
ところで、「より多くの実在性」とはなんだろう。実在性が多くなるほど属性が多くなるという。定義四から明白であるというので、定義四をみる。
ようは、属性が多いと知性によって知覚されまくるので、知覚されまくるということは、実在性が多い、逆に言えば、実在性が多いなら、知覚されまくるので、属性が多い、ということらしい。ふむ?
そして、実在性が多くなるほどに、それは必然性へとせまっていくのだという。
ようは、神は必然的に存在する、という結論へと向かっていくのだろう。

  • 定理十一: 「存在することを妨げる何の理由も原因もないものは必然的に存在することになる」。
思うこと

神の本性を考えると、存在することを妨げる理由や原因をどこにも求めることができない。
また、無限な実有は有限な実有よりも有能であるので、有限な実有のみがあって無限な実有がないということはない。なぜなら有限な実有が存在できるのならば、より有能な無限な実有も存在できなければおかしいからである。
あるいはもっとシンプルにいえば、属性が多いだけ実在性が高まるのだから、無限の属性をもつ神は無限の実在性、すなわち必然性をもって実在することになるのである。
とのこと。
まあでも簡単にはわかんないよね、と言ってくれる。親切である。
堅牢なもの、すごいものほど生じ難い。人間社会の常である。無限にすごいものなど無限に生じ難いに決まっている。これが我々の感覚であるという。ごもっとも。

さらに余談

ここで浅薄な俗人であるところの、阿呆極まりないおれはこんなことを思う。
「いま流行りの陰謀論ってヤツ、あるだろ。巨大な何かが何かの目的のために人々を操ってるとかいうヤツ。あれも、ものすごーく大きくて得体が知れないなんかがある、みたいなこと言うじゃん、ここでいう神ってのはああいうのなの?」
まあそんなわけがない。どうせこの本のどこかに書いてくれてるだろうと思ってページをすっ飛ばしてみたら、果たしてこの第一部付録が、まさにそんな感じの「偏見」を排するために苦心されたものだった。おれはスピノザの手のうちにある。
この付録を、昨今はびこる陰謀論を念頭において、それを打破するようなものとして読むことは現代の我々にとってはけっこう簡単なはずなので、是非やってみてもらいたい。

今日読んだのはここまで。

神という実体

日が明けて、定理一二あたりに目を通す。
目を通すんだけど、昨日読んだ範囲でもうなんていうかなあ、言いたいことは全部言ったあとなんじゃないかななんて思っちゃう。
ここから先しばらく「神というただ一つの実体」についての定理が述べられるわけだけど(定理一四にそう書いてあるし)、これを述べるためにここまで全ての定理があった。
そこまで誤謬なきよう私は丁寧に証明した。
あとはもうわかるね?
みたいな。違うんかな。
「エチカ」の浅瀬でちゃぷちゃぷし始めたばかりのおれはそんなふうに思ったので、ここから第一部のおわりまでは、目を滑らせてもいいような気がしてくる。
ここまでの定理をおれは結構丁寧に読んできたつもりだから、まあ、いいことにする。
形式上ここから先も定理とその証明、というふうに書かれてはいるけど、ようは、神という唯一の実体がかくあるものである、明白だよね、そうじゃなきゃ不条理だよね、と繰り返している感じだ。
おそらくこの第一部の大サビに当たる定理一四、定理一五。これがこの部で最も言いたいことであったのだろう。
また定理一五につけられた長い長い備考をざーっと読む。なんだか、「エチカ」が出版の翌年に発禁になった理由の一端がここにある気がする。
明らかにここにある「彼ら」とか「人々」というのは当時、スピノザからみて宗教的にこう、敬虔ちゅうのか、懸命ちゅうのか、そういう人をさしている。でもって、彼らの思う「神」の姿を、間違いである、誤りである、とんだ勘違いである、等々、これでもかと否定する。
おれはヨーロッパの歴史について全然知らないし、まして神をめぐる一般的認識がどうであったかとかも全然知らないのだが、まーこりゃなんだか、偉い人に怒られそうな内容だなと思う。

腹減った。そろそろ飯を作って食べる。

やってられんぜな半休(3162字)

最近は週に一度半休を取ることにしている。やっていられないからである。
やっていられなくなっているのは自分のせいであって、やっていられないようなやり方をしている自分のせいに他ならない。
ようするに、勝手にやっていられなくなっているだけである。

そんなやっていられなさを振り払うために、わざわざ生活圏の遥か遠くまできて、そこからまた1キロちょっと歩いてスーパー銭湯にきた。
ここまで来るのにさまざまの逡巡があった。
まず、仕事帰りに寄り道をしようと決めるのが一大決心だった。疲れているのだから大人しく家に帰ってゆっくりするほうがいいのではないかと、事務所を出て最寄駅に行くまでに考えていたが、これをかき消したのは明日は天気が荒れるという予報だった。
明日は出かけようと思っても気分よく歩くことはできない。
そう思ったらまあ今日このタイミングしかなかろうと思った。
次に、わざわざ生活圏の遥か外側、特急列車で30分の距離まで出かけることを躊躇った。
いや、それは躊躇って当然だろ、むしろただの午後休でなんでそんなとこまで行くんだ、というのがまともなご意見である。
然り、なぜそんなに遠くまで出かけるのか。スーパー銭湯に行きたいにしたって、もっと近所にあるだろうに。そう自分でも思った。
しかしおれは特別急行というやつが大好きなのである。それこそ目的地がなかろうと、適当な距離の切符を買って乗って往復するだけでそれなりに満足するくらい。
なぜわざわざこんな遠くまで行こうとするのか、おれの頭に一瞬生じたそのまともなご意見は、特急楽しいじゃーん、という気分一つで消え去った。
そんなわけで特急に乗って、車窓とシートと揺れと中途半端な時間の車両の静けさを堪能して、降車駅につく。
さて改札を抜け、ここで再び正気が首をもたげる。ここから目的のスーパー銭湯まで道のりだいたい1キロ半はある。仕事帰りの重たいリュックを背負って歩いてまで、スーパー銭湯くんだりに行くべきだろうか?
そんなことを考えながらも足は勝手に歩き始める。歩いているうち、
あー、一人で長いこと歩くのも久しぶりだなあ、それも特別用事があるわけでもない、急ぐわけでもない、歩きたいように歩くだけってのはこんなに気持ちよかったかなあ、
などと、誰もいない道を、ほとんど今書いた通りに一人ぶつぶつと呟きながら歩く。
実際、誰かと一緒に連れ立って歩くのとか、朝晩通勤のために歩くとかいうのとは、同じ歩くのでも体の使い方が全く変わってくる。早いとか遅いとか以上に、膝、足の裏、腕まわり、から効率よく推進力を得て、自らの身体でドライブするような、身体を動かすための動かし方が自然と発生し、おれの身体はたちまち無敵の踏破性を宿し始める。
こんなんいくらでもあるいていけらあ、という気分になった頃、スーパー銭湯にたどり着いた。
本当にどこまでも歩いて行ってやろうかとも思ったが、やめた。たぶん風呂も気持ちいいだろうし。

さて、脱衣所で全裸になる。
もうこれで気分爽快である。ただ快適な温度湿度に保たれた脱衣所で全裸になるだけで気分が良い。
へんなことをいうが、他人の裸に囲まれるのもここでは悪い気はしない。
そういえば、ワンピースの、クロコダイル戦が終わった後、一味とコブラ王が風呂に入るシーンの台詞がめっちゃすきで、よく覚えているのだけど、
「権威とは衣の上から着るものだ」
本編を読むとたいそうすばらしいシーンであるので、読んで思い出してみてほしい。
とにかく、服を脱いだ人間のおもしろさというのは、そういうものだ。

内風呂に入り、身体を温めてから、露天風呂に行く。
外気のつめたさ、湯の熱さ、風、これらを全裸体に余すところなく浴びる。身体と湯だけで味わえる至上の娯楽がここにある。
身体にいろいろな刺戟を加えるのはそれだけで娯楽になる。
かつての自分の悪癖を恥ずかしげもなく紹介すると、一人でラブホテルに行くのがめちゃめちゃ好きでしょっちゅうやっていた。しかも別にそういうお店に電話をかけて「お連れ様」を後から呼びつけるとかするのではない。
まず部屋に入ってとりあえず全裸になる。そのあとについては流石に事実を開陳するのはやめておく。
滞在時間いっぱい全裸で過ごす。飲み物を飲むにせよ何か食べるにせよ全裸でやる。身体一つの娯楽を自分一人でめいっぱい楽しむのが大好きだった。
この趣味は、まあ、金がかかりすぎるのですぐにやめた。
健全な銭湯に話を戻す。
皮膚、臓器、血管等にさまざまの刺戟が加えられ、さまざまの変化がおこる。それらはなんの工夫もいらないうえに極めて質の高い娯楽となる。ラブホに一人で行くより全然安いし。

銭湯を出ると陽が沈んでおり、もう直ぐ夜になるころだった。来た道を歩いて帰る。ブンブンしていた往きとは違って、帰りは身体がのんびりしている。
このスーパー銭湯には何度も来ているので、この道も何度も歩いたことがある。最初に歩いた時は、ざんざんぶりの雨だった。傘もささずに一心不乱に歩いていた。確かその時はずっとピロウズを歌っていた。
休みの日、よく晴れた夕方にここを歩いたこともある。駅から銭湯に行くために右折する交差点があるのだが、そこを曲がらずに直進すると川を越える橋がある。橋を渡り川を越え、対岸の土手をとぼとぼ歩き、別の橋を渡って元の岸へ戻り、畑やら家の隙間やらを抜けて歩いたのを覚えている。
銭湯に向かう道中に地元チェーンと思しきスーパーがある。そこで適当な巻き寿司を買って、川の土手まで行って食っていたこともある。
なんだかんだこの道には愛着を持っている。家からすげー遠いのに。そんなことばかりしていた時期があるので、そういう道が都内近郊あちらこちらにある。

鏡を見る。帰りの電車の窓に映る自分の顔を見る。往きより目がよく開いている。事務所にいると決まって襲ってくる気絶しそうな眠気と頭痛はすっかり鳴りをひそめ、ほどほどに身体を動かした疲労感がある。

ふと、仕事をしている時の自分のことを思う。
おれが一日かかることを一時間でやってしまうような人がいる。そいつはちなみに、おれが三日かかってもできないことは、その場で相談しながらちょいちょいとやってしまわれる。
人にあーしろこーしろ言ってる時のおれはずっとたどたどしい言葉で喋り、謝る時だけは流暢になる。ひどい時は考えが全くまとまらず、人前で2分くらい黙りこくっていることがある。こんなんなので、マジで、なんでおれが人にあーしろこーしろ言うような立場にいるのかよくわからない。
そんなふうに思っている間に、隣のあいつは配下の十人くらいにテキパキ指示を出しているのである。
得意なことをやっている人間というのは、隣のあいつや彼のように、凄まじい能力を発揮する。多分おれもどこかにおいてはそうなのだろうが、何が得意なのやらよくわからない。
彼らもそうなのだろうか。

キーボードから手をのけると不意に吐き気が襲ってきた。そういえば動く乗り物の中で作業をするのが苦手なのだった、忘れてた。座席にもたれて天を仰いでやり過ごす。

外を歩いていた時の陽気な気分はどこへやら消え去ってしまった。急速に明日が面倒になる。

頑張り屋さんのフリがそろそろもたなくなっている。思えば、それがもたなくなったあとの自分を知らない。なぜかって、もたなくなった頃にいつもその場を離れているからだ。
まあ、すぐにこの仕事をやめることもたぶんない。頑張り屋さんのフリをやめたおれは、はたして周囲からどんな感じに見られるだろうか。きっとじわじわ嫌われるに違いない。あいつも入った頃は良かったとか言われるのである。見ものである。

文章と運動(3983字)

文章で何かを喜ぶことは思ったよりも難しい。すごい、やったー、みたいなことを書こうとすると、もうそれだけで終わってしまう。
おれが捻くれ者なのではなくて、文章を書くというのはだいたいそういう方向に偏っていくものなのだろう。誰かを褒めるより悪口を書く方が簡単だ。褒め言葉は短くて素直な方が印象がいいけれど、悪口は長ったらしくて巧妙なほど優れている。
誰かを励ますための文章を書くとする。たとえば、学校の卒業生に向けてメッセージを寄せるとかだ。こういうときもアンタはエラい、学校生活よく頑張った、感動した、みたいなことをただ述べるだけでは別にあんまりありがたみがないだろう、面白くもないだろうな、と思ってしまうのは、やはりおれが捻くれ者だからだろうか。
こういうときはひとつ、社会に蔓延るなんらかの罠、毎日やってくる苦難等々について悪し様に述べてから、いわば学生それ以外のものに対する悪口を書き並べてから、最後に、学生に向けた言葉を述べるほうが面白いし、感動さえしてくれるかもしれない。

なんらかのありようについて悪く言ってから、本当に述べたいそれ以外のものについて話をする。すると、自然とあとに述べたものを良く描くことになるし、物語的にも上等で、意図するところはより伝えやすくなるかもしれない。
「褒めたいものがあるだけなのに、それ以外のものをサゲるのはダサいぜ」という意見もあるけれど、まあ、自然に人が文章を書くと、特段訓練をせずに、仕事でもなんでもなく、ただ手慰みに何か文章を書くとしたら、それが一番書いている当人にとってはエキサイティングで、真に迫れるやり方なのであるから、まああまり目くじらたてて叱ることもない。

喜ばしいことについて文章を書くのが難しいもっとシンプルな理由、それは、喜ばしいことはただ喜ばしいので、文章にするまでもないというのもあるだろう。
何か、噛んでも噛んでも飲み込めないようなことを書きまくるのが、人が長い文章を書く最も簡単なやり方だ。それは噛み締める動作そのものでもある。
喜ばしいことは消化にいい。消化にいいから噛む必要もない。飲みこんで、ただそれだけでおいしかったり、自分の血肉になったりする。
喜ぶべきことだけど文章にせずにはいられないぜ、ということがあるとすれば、それは、何か身に余る栄誉を授かったとか、天を仰いで驚いてまだ現実だと信じられないような驚きを伴う喜びとか、そういうものだろう。
たとえばただ今朝食った目玉焼きは我ながらベストな黄身の固さであったとか、そんな話は別に文章にするまでもない。噛んでも味は変わらないし、かみごたえのあるような事実でもない。ただ、喜ばしい。
小さな幸せを綴るには文章というのは不向きなのだろうと思う。
だから、可愛い雑貨屋さんとか、可愛い絵を描く人とかがたくさんいる。たぶん、幸せを形にしたいのであれば、文章以外の形式を取るほうが良い、そんな気がする。
もっとも絵も描けないし工作の類も何もできないからわからない。
ただ、手慰みに毎日のように書いているブログの記事もだいたい30本くらいになってきて、なんだか、ただの小さな幸せは別に文章にしても楽しくないなあ、なんか、酔っぱらいが管巻いてるみたいな文章書いてるほうがずっと楽しいなあ、と毎日のように思っているから、もしかしたらそうなんじゃないかと推測しているだけである。

幸せを外に示すことができないのはべつに不幸せであるからではない、これまでの話を踏まえるとそういうことになるし、実際そうであると思う。
同様に、不幸せや悪口を発信するのは、その人が本当に不幸せであったり、四六時中悪口を言いたくてたまらないからではないのかもしれない。
ただ、暇つぶしに文章を書いてTwitterとかに投稿してみたら、なんだが悪口とか不満とかが先に出てくるぞ、というだけのことかもしれない。
そんなわけで、悪口や糾弾のたぐいがバズって「おすすめ」欄に出てくることがあまりにも多いのも、まあ仕方ないのかなという気もする。
それにしても、たった140字の枠で満足なのだろうか。少なくともおれは何か悪口を書きたくなったら、140字で発言をまとめることなどできない。もっと気楽に数千字の文章が投稿できる場所を持っておいたほうがいいと思う。
数千字かけて述べた悪口には、たぶん、大したこと言っていなくても、140字でまとめちゃったものに比べれば、なんらかの迫力がそなわる。それに、長ったらしく書くようにするだけでも、過激な言葉を使ってしまうのはいくらか予防できるんじゃないだろうか。

ところで、ボーナスが入ったとき、別に買いたいものなんて何もなかったはずなのに、なぜか金を使いたくてたまらなくなってしまうこと、ないかな。お金を貯めるのが苦手な人によくあることだ。おれはいつもそう。
これって一体なんなんだろうね。お金なんて別に急いで使う必要はないのに、むしろ急いで使わないほうがいいに決まっているのに、一時的にたくさんお金があると使ってしまいたくなる。
お金についてはいろいろの意見があるだろうから、あくまでもこれは持論だけど、これは、たくさんのお金を持ち続けている自分が想像できないから、ようは自分の想像に見合った分まで、想像から溢れたぶんは即座に消費してしまいたくなるんじゃないだろうかと思う。
つまり、自分の想像を超えたぶんの手元のお金は「余剰分」として数えるのが自然な判断で、その余剰分を、貯金とかそういう形で抱えたままでいるには、理性や人のマトモな意見が必要になってくる。
貯め込むというのは賢い理性で判断した上の行動で、使い切ってしまうのこそ、自然な判断なんじゃないだろうか。しかも、そこに、具体的な欲が一切なくても。
話が逸れてしまった。ちなみにそういうとき、おれはとりあえず防災グッズを買い込むことにしている。東急ハンズなんかに行って、普段買わないような非常食とか、携行トイレとか、あればあるだけ良いものをたくさん買って帰る。

ところで、気持ちの整理がつかないときに文章を書くのも似たようなものかもしれない、と思っているから、こんな話をしたのだけども。

時に、自分のキャパシティを越えそうな何かが湧きあがる。そういうときは、とりあえずなんでもいいから思いついたことをばちばち打ち込んでいくと気分が良くなる。
日常を過ごす上で抱えていられない余剰分の何かを、文章を書くことで消費する。
外部からの刺激か、内面からの悩みか、何かはわからないけど、なんらかの余剰が人間の中には常にある。何が余っているのかといえば、いわばエネルギーが、といっても、別に日頃から元気が有り余ってしかたない、とかそういう意味ではない。
何にせよ物事に遭遇するというのは、それが良いことであれ悪いことであれ、自分という存在に物事がぶつかってくる時に発生するエネルギーがある。
内面のみにおいても、人間の頭の中では絶えずいろいろなものがぶつかり合っている。ぶつかり合っている、というのは別に、あちらにしようかこちらにしようか、という悩みが常にあるとかそういう限定的な意味ではなくて、もっと広範に、頭の中であらゆるものが動き回っているということだ。そのエネルギーも、じっとしていればすぐに一杯になってしまう。
だからこういうものを消費する必要がある。抱え込んではいられないから。抱え込む、というのは悩みについてのみ言えることではなくて、人間はただ生きているだけで何かそうしたエネルギーをどんどん抱え込んでいくものだとおれは思っている。
こうした余剰エネルギーの消費において、文章を書くという行為はかなり有効だし、割と誰にでもできることなんじゃないかと思う。

それに、そうして書けたものとか、あるいは、書いた経験そのものが、「有事」への備えになっているような気がする。おれがお金を余らせたとき(お金が本当に余っている時なんて今まで生きてきて一度もないのだけれど)、たくさん防災グッズを買うのと同じように。
「有事」というのは、日々なんとなく苦しいときとか、イラついたときとか、悲しい時とか、理由もなく寝れない時とか、そういう時だ。
そういう時に自分の書いたものを読み返すと、なんというか、自分のリズムを感じるというか、自分の書いたものだなあと思う。これが結構気分の回復に役に立ったりする。
それに、べつに自分の書いたものを読み漁らなくてもいい。ただ、こういう思考のルートを一度辿ったことがある、みたいな記憶が、なんらかの文章を書くことによって生まれてくる。この記憶というのは、どちらかというと「自転車に乗ることができる」とか、そういう身体的な記憶だ。
つまり、ただ文章を書くだけでも、頭の使い方、日々の気分の巡らせ方みたいなものが、より円滑になってくる。

とまあ、そういう訓練の意味もあるので、運動と同じように、文章を書くのは健康にいい。と、おれは思っている。

ひょっとすると何か悪いものを見たり、腹の立つことに遭遇したときほど悪口とか不平不満がすらすらと出てくるのも、筋トレするときに重りで負荷をかけるとか、ストレッチで体を伸ばすと痛いのに気持ちいいとか、そんなようなものなのかもしれない。手ごろな「負荷」を見つけたから、いっちょこねくり回してやるか、みたいな。

「負荷」にあたるものは人間の中にいくらでもある。
あえて外に探しに行く必要すらない。悪いニュースとかムカつく出来事とかをあえて探しに行く必要もない。自分のなかに、余らしているものがいくらでもあるはずだ。
それに加えて、日々仕事でもしようものなら、もう全身余剰エネルギーでいっぱいだ。ぜひ、それをどんどん消費するべきだと、おれは思う。

さて、先のお金の余剰の話においては、使い込むことこそ天然自然の判断であって、貯め込むことは理性のなすことだと言った。
では、人間の中の余剰エネルギーを消費するために文章を書くのだとしたら、文章を書かずに貯め込むことこそ理性のタガによるもので、文章を書くほうが天然自然な振る舞いということにはならないかな?
おれは、わりとこれ、本当にそういうところがあるような気がする。