タコノキ

実がなる

スピノザ「エチカ」を読んでる(四)

定理二八。
世界の一切は神の属性の変状または様態であるとずっと述べられているが、永遠かつ無限でない個物がこの世は確かに存在しており、にもかかわらず神の属性のすべては永遠かつ無限でなければならない。
ようは、この世のすべてが永遠かつ無限であるはずがないのに、個物一切は永遠無限なる神の属性の変状または様態であると主張することの困難に対する回答がここにある。
この定理の証明と備考の中でようやく、有限で定まった存在を有する個物の存在できる理そこから初めて有限で定まったあらゆる個物が発生できるというわけだ。
たしかに、一切が可能であるなら、永遠無限の属性が定まった有限のものに変状することも可能ということになる。なんだかちょっと騙されたような気分にならなくもないが。
とにかく、永遠無限なる神の属性から、直接ではないにせよ、有限で定まった個物、我々のような個物も発生しうるというわけだ。

定理三〇。
現実に無限な知性とはいったい何か。ただ言ってみただけか?有限な知性が我々の知性なのだろうけども。
そして、その知性はいかなるものであろうと、神の属性とその変状以外を知ることはないという。
つまり、知性は神を知るためにのみあるのだと。

定理三一。
能産的自然と所産的自然、という突然登場したこの言葉は、きちんと訳者注に起りと意味が書いてある。ありがたい。
さて、知性は所産的自然、つまり「動かされるもの」であるとのことだ。これは、「エチカ」の外にあるおれの直感には反する考え方である。なぜというに、どうしても人間の知性だの能力だのというものは非常に高いものであり、世界を形作る原動力であり手段であり原因ですらあるとうたわれることが多いからだ。
人間には無限の可能性、無限の能力があり、無限のことができる。これを全く含みなく、全く言葉通りに、極めて皮相的に受けとり実践することこそが、現代大衆一般の最高の徳であるはずだ。
そこに神はなく、ただ人間だけがある。人間は個々に異なった形で無限である。
「エチカ」に散々登場してきた「無限」をふまえると、やや矛盾を感じなくもない言い回しだ。しかし、そのように矛盾していることも含めて、現代ことにおれの周囲に流布された美徳の性質をよく表すことができていると思う。
ところでここでスピノザは、「知性は所産的自然」であるという。神の所産。
(ここでおれは所産、を辞書で引く。思った通りの意味で安心する)
そう、知性は神の所産物。この見方は現代の人間には違和感があるはずである。
そもそも知性の先に神を前提とすることがおれには難しい。「知性作用は我々が何ものにもまして明瞭に知覚するものである」ばかりではなく、知性作用以外に世界を決定づけるものなどないと感じてしまうからだ。
つまり、われわれは知性作用を知覚するのではなく、知性によって世界がはじめて知覚されまた存在すると、天然の状態のおれは思っているわけである。
(手持ちの本を超うろ覚えでただ思い出しただけだが、ベルクソンという人はこのような立場を取っていたような気がする。あとで岩波の『物質と記憶』を読み返してみる)
定理三一は、こうした考えを否定する。

定理三二。
定理三一のとおり、知性が神の所産物であるなら、人間の意志もまた神の所産物である。
現代のわれわれからするとなかなか挑戦的な言い草で、人間様をなんだと思っとるんじゃ、とか言いたくなりそうである。
しかし忘れてはならない。スピノザのいう神のありようを。これは平凡な運命論ではないのだ。
平凡な運命論と捉えられそうな言葉を、決してどう頑張っても平凡な運命論の原因にはなり得ない神の本性を前提において語っている。
ここに「エチカ」の旨味がつまっているに違いない。

定理三三。
これも同様である。平凡な運命論のようで、スピノザ的神を前提に置くとそうではない。

定理三四。
神とはその能力以外の何者でもない。
あらゆることの原因であり唯一の実体であり、そこから無限に多くのものが無限に多くの仕方で流出すること、それ自体が神なのである。
スピノザのいう神とはそういうものであることを、おそらくこの先「エチカ」を読む上で意識し続けるべきだろう。

定理三五、三六。
第一部の締めくくりである。

さて、この先に長い付録が続くのだが、その中では先の、ここまでの定理を平凡な運命論として勘違いすることに対する配慮のこもった文章がある種の人々への痛烈な批判とともに丁寧に書かれている。
非常に痛快であるので、ゆっくり読んでほしい。
この付録だけ「エチカ」の外へ取り出しても十分に面白いのではないかと思う。むしろ、第一部の定理群を読解しようと試みる前にこれを読んでもいいかもしれない。
それくらい面白い。
なぜなら、ここで批判される「偏見」は、現代、まさにいま社会で問題となっている何かを思い出さずにはおかないからである。

おれはこれで「エチカ」第一部を読み終えた。
言わんとするところはなんとなく、把握できたように思う。それはおそらく、スピノザが、言わんとするところをおれのような素人にも理解できるように、定理の順序に配慮して、単なる証明の羅列にならぬよう展開を意識して、この「エチカ」を書いたからに他ならぬであろう。
たぶん「エチカ」はそういう本である。
この本を読むためにいかなる予備知識も必要ないように書かれ、この本はなるべく万人が理解できるように心を砕いて書かれている。
定理とその証明という幾何学の様式をとったのも、単にスピノザの好みということもあろうが、万人が読み解くことのできる秩序を織り込もうと努力した結果なのだろう。
残念ながらおれは遠く西欧の歴史には造詣が薄いし、生きる時代もスピノザとは大きく異なる。だからたびたび出てくるギリシャ哲学を源流とする言葉等々はまったく意味がわからなかったりする。
なんの予備知識もいらないように書かれた希代の名著とはいえ、さすがに、四百年の隔たりと、数千キロの物理的距離とがあれば、多少なり意味のわからないところがポツポツ出てくるのは仕方のないことだと思う。
が、そこは岩波版の訳者注、および冒頭「『エチカ』について」で補われている。これは大変にありがたい。
ゆえに、おれはこう言うことができる。
「エチカ」は解らない本ではない。
これは万人が解るように書かれた本なのだから。
誰でも少しく考察すれば、この本を理解し得るであろう。ゆえにおれはこれによって、第一部を読み終えたと言うことができるのである。