タコノキ

実がなる

歳末のよろこび

年が明けるよりも終わるほうがワクワクする。だいたい皆そうだと思う。正月が来ることよりも、大晦日が来ることのほうが良い。新しい一年には大した期待もなく、今年が終わることに皆興奮している。毎年そういうものである。
にもかかわらず祝いの言葉はハッピーニューイヤー、あけましておめでとうございます、となる。年が終わることを直接に祝う言葉はない。
思うに、漫然と新年を迎えてもなんとなく寂しいから、祝いの空気が必要なのではなかろうか。終わりを祝うよりも、始まりを祝うことが必要だから始まりを祝うのだと思っている。少なくともおれにとってはそうである。
新しいものを迎える瞬間というのは、それまでの劇的な感動とは裏腹にあっさりしたものであったりする。何か欲しかったものを店で買い、持ち帰り、家のドアを開けるその瞬間が興奮の最高潮であり、買ったものを開封する時はいっこう穏やかなものである。このときの興奮の正体は新しいものそれ自体への期待ではなくて、ものがない状態からものがある状態への遷移の瞬間への期待である。それゆえ、欲しくて買ったものを買ったあとなかなか開けずにいたりするのは、何も不思議なことではない。
年の終わりと始まりも同じことであって、新しい年そのものに多大なる期待をしているのではなくて、年の変わり目を待っている。新年という結果を期待しているのではなくて、今年から新年への変化を期待しているのである。これについては人々の大部分から同意が得られるものと思っている。
変化は、ある状態の終端と、ある状態の始端が重なってできている。このうち、終わりのほうは人に劇的な作用をもたらすが、始まりの方はそうした作用を持たないとしてみたい。「欲しいものが手元にない状態が終わる」のは嬉しくとも、「欲しいものが手元にある状態が始まる」ことが嬉しいのは稀でないかと思うわけである。人はその始端のほうから先を生きるにも関わらず。
(ここで、たとえば「店が閉店する」といった何かが終わる変化についても、店があった状態の終端と、店がない状態の始端があることに留意してほしい。おれは劇的なのはいつも終端のほうであるといいたいのだ)
だから祝う必要がある。始まりをあえて祝う必要がある。これから始まるものを、終わりと同じくらいの興奮をもって迎えるために。
基本的には終わりこそが一大事で、始まりは些細なものである。だが、始まりが些細であっては困ることがあるのだろう。なんとなく、これまで生きてきてそう思う。始まりをあえて祝わねば、「始めていられない」ことがある。終わりは勝手に訪れる。そして、終わりは人々に劇的な感情を持って迎えられる。終わりは歓迎されるべくして訪れるのである。
始端を祝うのは、これからその中を生きねばならないからだ。始まりは個人的な喜びではあり得ない。祝って、周囲とわかちあうことで、ようやく喜びとなるのである。終端はその真反対である。終端は終端であるというだけで人を興奮させ、喜ばせたり悲しませたりする。終端は個人的に味わうものである。
新年とは個人的な幸福ではなく、分かち合われるべきものである。年が終わることは個人的な幸福であり、一人静かに振り返るべきものである。
そして、生まれる時と、老いて死ぬ時もたぶんそうだろうという気がしてならないのである。