タコノキ

実がなる

鼻毛を初めて切った日

鼻毛を初めて切ったのは大学2年の頃だった。それまで私は鼻毛のことなど気にしたことがなかったし、人は定期的に鼻毛を切るものらしいことなど思いもよらなかった。20年弱にわたり誰にも鼻毛が出ていることを指摘されたことがなかったか、されたとしてもいつもこっそり指で仕舞うだけだったのかはよく覚えていないが、おそらく前者だったと思う。
周囲の人々が皆鼻毛一本のことなど気にしないおおらかな人だったのか、ただ気を遣われていたのかはわからない。もしかするとあいついつも鼻毛出てるしな、と諦められていたのかもしれない。
鼻毛が出ていることを面と向かって指摘された初めての記憶が、大学2年の頃ということである。学内の廊下を歩いていると、履修している授業の担当教授が向かいからやってきた。会釈してすれ違おうとすると、先生は急に立ち止まり、鼻先が触れんばかりの近さに顔を近づけて言った。
「〇〇君ねえ、鼻毛は切ったほうがいいぞ」
この日、私は鼻毛という、噂には聞く、どうやら鼻に異物が入るのを防ぐ役割を果たしているらしい毛を、初めて自身の身体の認識のうちに取り込んだのである。

早速薬局で先の丸い小さなハサミを買った。この先の丸いハサミでもって眉を整えたりすることは知っていた(知っていた、というのが重要。当時の私は眉毛を切ったこともなかった)が、まさか、鼻の穴に突っ込んでその内にある毛を切断するなどという用途があるとは思っていなかった。
家に帰って洗面台の前で鏡を見る。たしかに鼻毛が出ている。恐る恐る鼻の穴に切先を突っ込み、ハサミを開閉してみると、確かに複数本の毛を切る手応えがある。取り出してみると切った毛が刃についている。私は、噂に聞く鼻毛なるものがこれほどの密度で、また、これほど太くたくましく生えていることに驚いた。こうして私は、あの廊下で出会った先生のおかげで、ひとつ新たな身だしなみを覚えたのである。

先生の講義は人気があったし、私も好きだった。「これは何々であり、これそれである。なので、あれそれであるということだ」と、書き言葉のような話し言葉で朗々とよどみなく話をする。額は広く、目は鋭く、顔の隅々まで浅黒く日焼けしていた。そして、たまたま廊下ですれ違った、まだ研究室に所属しているわけでもない、ただ必修の講義を受講しているだけの学生の顔と名前を覚えており、そのうえ鼻毛が出ていることをド真面目な顔で教えてくれるような先生であった。

自分の姿形に関心を持ち、その手入れをするのは気分がいい。これは「他人からどう見られるかを気にする」という話ではない。ただ自分自身に関心を持つことを言っている。
人からどう見られるかを気にするのは、自分に関心を持つこととイコールではないし、どちらかがどちらかを内包するものでもなく、両者は本質的に異なっている。なぜなら、他人から自分を見るのは他人が主体であり、自分自身から自分に関心を持つのは自分自身が主体だからである。
また、鼻毛に話を戻せば、他人は私の鼻毛がはみ出たときに毛先を見るだけであるが、私自身は鼻毛の生えていることそれ自体を認識できる。鼻毛が実際に私の鼻の中の毛穴に根差し、それを切断することを知覚できるのは私だけである。直前の主張を踏まえるなら、他者から見る鼻毛と、私から見る私自身の鼻毛もまた、本質的に異なっているのである。
この段落の冒頭の言葉を添えれば、私は、私自身の鼻毛に注意を向けることで、日々を気分よく過ごすことができるのである。