タコノキ

実がなる

いつもどおり

夕餉を済ませ、食器や調理器具の片付けもおおかた終わったころ、ふと銭湯の熱い、大きな風呂が恋しくなったので出かけることにした。湯桶にタオルと着替えを入れ、小銭だけを持ち一人で家を出る。
靴を脱ぎ、靴箱に鍵をかけ、番台へ小銭を渡し、すぐさま浴場へ向かった。
弁を押し込み湯を出す方式の蛇口からは、家庭の給湯器とは比べ物にならないほどの湯量が供給される。これに加えて大きな浴槽の底からも湯が絶えず吹き出しているのだから、ボイラーの威力に感心する。
身体を洗い、湯に浸かる。こういう時、家の浴槽であればいろいろと考え事をするものたが、この熱さではすっかり頭がぼんやりしてしまい、できることといえば身体を曲げ伸ばししたり、幼いころそうしたように数を数えてみたりすることくらいである。とはいえ素っ裸で湯に浸かりながら考えるべきことなど別にない。身体がじっくり、やや過剰気味に加温され、血流がよくなり、身体を支えている筋肉関節等々が水の浮力で解放される感覚を確かめるともなく実感するのが銭湯に浸かるときの醍醐味である。
やがてのぼせる身体をゆっくり引き上げて、水気を拭き取り、着替えを済ませて、番台の目の前の休憩室へ戻る。この休憩室には決まってテレビが置いてある。自宅にはテレビを置いていないが、ここにはテレビがあって良かったと思う。もしこれが番台の趣味を反映したプレイリストがかかっていたりしたら、いくらそれがわたしの好みと合致しても、場違いを感じないわけにはいかないだろう。
銭湯を出ると、しばらく風に当たりたくなったので外を歩き回った。煙草を吸いたかったが、今時分屋外に灰皿が置いてある場所などそうそう見つからない。温まった身体をだらだらと動かしながら、タオルやら湯桶やらをぶら下げて、パーカーの前を開けて歩く。途中、勤めの帰りらしい人ともすれ違うが、まるで私とは違うリズムで歩行しているのがわかる。熱い湯でさんざんに茹でられたこの身体では、あのようにスッ、スッと歩くことなど到底できない。
夜風に満足したので家に帰った。仕事帰りで張り詰めていた眼のあたりやふくらはぎのあたりから力が抜けているのがわかる。熱い湯に入るだけでこれほど人間の体には劇的な変化がある。
ぬるめの半身浴などが健康によいと言われる。また、急に熱い湯に入るのは身体に悪いと言われる。しかし一方でサウナと水風呂を好む人は多い。結局のところ、極端な温度的刺激は気分の良いものなのである。

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聴視覚的、という単語がここ最近脳裏に浮かび、これぞ聴視覚的であると思うことが何度がある。
自分でもその意味するところを辞書のごとく説明できるわけではないが、視覚的なテキストでありながら、目から入って聴覚的に処理されるテキストのことをいう。最も私が聴視覚的であると感じるのは、コマンドラインである。単一行のコマンドラインは、読み上げられると独特の流麗さで耳に入ってくる。目は確実にモニターを見て文字を読んでいるのだが、読み上げた文字は文字列的視覚情報というよりも聴覚的音声列として処理されるのだ。
聴視覚的なものはほかにもあるであろう。紙面に記された俳句などはその典型である。あれは音読せずとも頭の中に声を響かせずにはいさせない。つまり文字的視覚的段落的理解ではなく、音声的聴覚的連続的な理解である。

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絵を描いていたことがある。自分のための絵だ。あのときは絵が上手くなりたくて描いていた。だからつまらないものだったが、それでもなにか一片の楽しみは感じていたものであったと思う。
いま、もう一度絵が描きたくなった。それはこうして言葉にするたびに言葉の外側へこぼれ落ち、そしてそのとき初めて認識されかかるような何ものかを捕まえて保管しておくためだ。鉛筆で自由に線をひくことでなにか描けるかはわからない。だけど、スケッチブックを持って出かけ、何も描かれていないところへ、決して無作為ではなく何事かを描こうとして引いた線が意味を持たないはずはない。何かを思い出す手掛かりにはなるだろう。

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ブランチというらしいパンがかわいいねとおばちゃんに言えばよかった日曜の朝

ガラス塊水面を模したりゆらゆらと遠くへ出かけた覚えなき場所

寒い夕方防災無線の音響く遠くクリスマスの音が聞こえる

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「やることリスト」がほしいという絶え間ない欲求は、おそらくリストを作らないことで解決する。

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空を分厚い雲が覆っている
遠方の地平線近くが朱に染まっている
鉄道は彼方へ伸びている
平屋建ての建物が並んでいる
家々の灯りが愛おしい
家や家や、愛しきあかりの灯るところ

遠くで妻が待っている
待っている人の元へ向かう
彼女は彼方の灯台である
彼女に会うために、黄昏をゆくのである

黄昏をゆく列車
分厚い雲の下で、煤けた橙色の空をなぞる
車中に人はいない、皆降りてしまった
家や家や、愛しきあかりの灯るところ

初めての町に暮らす
細い道、黄昏た道を歩き回る
この町をよく知るために
家や家や、愛しきあかりの灯るところ

十八の頃を思い出す
散歩する、と母にいい、家から離れた
わが家の生温かさを忘れよう
家や家や、愛しきあかりの灯るところ

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疲れたので外に出る。ああ、外は広いな、ものがあるな、と思う。ものがある。ものはただあるだけであり、そこに構造を見出すのは人間の勝手である。たとえばそれが、人が作ったものでさえそうなのである。
人は構造を意識してものを作るが、作られたものがどのように作られたのかを見いだすことはできない。それが可能なのは、ものに関して何か知っているからである。高度な計算に基づいて作られたものであっても、世界に放り出された途端、それはただ世界の一部になり、ただあるだけのものになる。
あれこれ考えて疲れた人間にとって、ものは、ただあるだけであることが幸いである。自然物ばかりがそうなのではない。道も、車も、橋も建物も、みなそうなのである。全てのものは人の考えなど関係なくただ存在している。
人間もまたそうである、あるようにしかあれない。忘れてはならないことは、あるようにあるものは幸いであるということである。