タコノキ

実がなる

神社に詣でる -東郷神社、乃木神社

初詣、というわけでもない。実際、年が明けてから幾つの神社に行ったかよくわからない。そのなかに東郷神社というのと、乃木神社というのがあった。
どちらも日本史の授業を少し思い出される名前かと思うが、実際、御祭神はそれぞれ東郷平八郎その人と、乃木希典その人である。

東郷神社のおこりが、境内の看板に書かれている。想像通り、主に明治の日露戦争の武功を讃えて東郷元帥の死後、神として祀ったとのことである。
当時国内外から彼を祀るべしとの声多く、と由緒にはある。なんだか、はて本当にそうだったのだろうかと思ってしまうが、ここは神社の言うことを信ずることにする。
境内にはいたるところに「あの」黒、黄色、青、赤のZ旗の図柄があり、めでたき御旗としてお守りのデザインにもなっている。この図柄はそんなめでたいものだったろうかと少々可笑しい気持ちになりつつも、本堂にお参りする。

東郷神社は原宿、明治神宮のほど近くにある。元帥殿の武功を讃えてお宮を建てるならば時の天皇陛下のおそばがよかろうとのことであるらしい。
境内は広く、先述のZ旗のせいもあろう、煌びやかな印象がある。本堂の門前の大きな看板には、生前の東郷平八郎閣下の武功がつらつらと語られている。

本堂の参拝客は長い列をなしていた。二人連れが多いせいか列は二列、賽銭箱はひとつ。特に誘導などはない。年始の訪れる人の多い時期なのだから、何かもう少し工夫があってもいいのではないかと、信心深さとはかけ離れた勝手なことを思う。
列はゆっくりと進む。その長い列をみて「時間がもったいねえ」とゲラゲラ笑う派手な髪型の男が気になった。

東郷神社を出て、大混雑の竹下通りを逃れて、明治神宮へ参ったあとは千代田線に乗る。乃木坂駅で降りて、そのほど近くの乃木神社へ入った。
先の東郷神社と同じく明治時代、日露戦争の武功大きな人物を祀る神社ではあるが、東郷神社と比べて敷地は小さく、境内の建物はぎゅっと集まっており、一目で境内全てを見渡せる程度の広さであった。
おれは乃木希典という人物をよく知らない。神社の由緒が文語体で書かれた小さな看板があるのでよく読み、驚いた。
曰く彼は明治天皇崩御の折、陛下に殉じて自刃し、その妻もまた、彼と同時に自ら命を絶ったという。その死を悼みまたその意に敬服して、乃木邸の敷地がそのまま神社になったとのことである。
先の東郷平八郎閣下の華々しい武功を語る大きな新しい看板と違い、古ぼけた、少々汚れた、小さな看板の、我々には馴染みないカナと漢字の文体で、この由緒は語られている。
ここで語られていれば十分であると、そういうことなのだろう。看板の末尾には昭和の初めの日付が書かれている。
そのような由緒ゆえか、境内は木々の葉で覆われ、粛々とした雰囲気がある。

参拝客の列はさほどでもない。というのも、急拵えの賽銭箱が本堂の前に四つもあり、列の捌けるのがとても速いのである。
御神酒を配っている。杯を買うと注いでくれる。さらっと飲める感じの酒だった。
辰年にちなんだ絵柄の大きな木板の前で写真を撮る人たちがある。

種々の祈願に対応するお守りを売っている。その中に「つれそい守」というのがあった。ふたつ揃いのお守りで、袴と白無垢の絵柄であるので、夫婦連れ添い、ということだろう。
ここが、時の国家元首に殉じた夫と、その夫と共に命を絶った妻の祀られた神社であることを思うと、なかなかに凄みのあるお守りである。

神社と神社を比較するのも無粋なことかと思う。だが、同時代、同じような立場の人間を神として祀ったふたつの神社にせっかく参ったのだから、並べてこうして書いてみるのもよかろうかと思った。
東郷平八郎は海軍の、乃木希典は陸軍の功労者である。また、両名の死の時期からして、創建は乃木神社のほうが早かった。
明治、大正、昭和の陸海軍のあれこれからして、当時はこの二つの神社を巡ってさぞかし色々な感慨思惑等々があったことと思われる。
なんにせよ、お国のために立派に働いた軍人を死んですぐに神様として祀りあげる感覚には、われわれ現代の市民は、かつおそらくは政治家でさえも共感することはできまい。
明治は遠くなりにけりと昭和のころに言われてからも、すでに百年近く経っているのだから、無理もない。
昭和は遠くだと思う。平成はそう遠くない。元号がもう一度変わるころには、平成も遠くになるのだろうか。


平成の七に生まれて次も七

令和六年一月七日、粥を煮ながら。