タコノキ

実がなる

車中の記録

退屈によせて

平日の朝。退屈で退屈で、つまらない用事ばかりがこれでもかと押し寄せる予感でいつも死にたくなる。こんな気持ちで出社する人間でも重用されたりするのだからまったくおかしい。まさしくキェルケゴールのいうとおりである。「世間に重きをなし、歴史に名が残りもする。しかし彼は彼自身ではなかった」

退屈は死をもたらす。退屈の真の意味が今になってようやくわかった。やることなすことが自分の気に食わず、もはやこの世に居たくないという気分である。ただやることがないのは「暇」である。

なんと、人間は本格的に退屈していても10年生きることができるのだ。死にたくなるほど退屈であっても、死にたいと思いながら10年を生きることができる。むろん不断不休で死にたいと思っていたわけではないという事実を見過ごしてはいけない。それなりに人生の喜びを噛みしめる時間があったのである。そのわずかな味わいでわたしは命を繋いできたのだ。

退屈砂漠のオアシス

会社仕事は退屈だ。それはゆるぎない感想だ。だが退屈な場所でも、そこにいる人をその場限りの絶望から救うことはできる。退屈な場所にあってシリアスにさせないこと、シリアスになっている人を見たら掬い上げること。お気楽であること。真面目でないが能力を発揮すること。そうして退屈をよけてなんとか金をもらう。褒められた社員ではないし生き方としても中途半端だが、目の前の退屈をやり過ごす、誰かをその場限りで救うことはできる、おれはいつでもその場限りの救いが大好きなのである。

果てしない退屈の荒野をただ歩かされるロバにも水をやれればロバは笑顔になる どうせロバなら笑顔のロバがいい。おれもお前もロバだ。でもいつか救いの都にたどり着く。そこは活気に満ちていてロバさえ人間になる。人間でなければ生きていかれない、入る資格があるロバだけが人間になり、人間でいられなかったものはロバになって砂漠を歩き始める。でも後者の数は少ない。人間であることが何よりの幸せだから

悪意を持って人前を横切った

コンビニの前でサラリーマン風の男たちが十人ばかりたむろしている。飲み会の解散直前らしい。連中の一人が通行人の邪魔になるぞ、と周囲をたしなめ、少々の挨拶と共にすばやく解散したのだが、おれはそうだお前ら邪魔だぞと言いたげに集団の中心に割って入り何も買う気のないコンビニに入った。
申し開くがおれは別に連中を押し除けたわけでも、肩をいからせ睨みつけながら舌打ちしながら入店したのでもない。ただ黙って、人一人かふたりは余裕で通れる隙間を抜けてコンビニの自動ドアをくぐっただけである。
しかしおれには明確な悪意があったのを認める。何故こんなことをしたかといえば、ただただほんの少しだけイラッとしたからだ。迷惑をかけない程度に、自分だけがやってやったぞ、と満足できる程度に、発散したかったのである。
攻撃ではない。注意でもない。自然な心の動きに従っただけである。しかしそれだけでも、おれの目からはおれ自身が連中を割り開きくぐり抜けたように見えたし、互いに挨拶で頭を下げ合う姿がおれを高貴な者のように出迎えているふうに見えて滑稽であったし、おれはすこぶる爽快な気分だった。
久しぶりに人を馬鹿にした。

日中の繁華街で

日中、おじさんたちと飲み屋街をランチ目当てに歩いた。道中高校生くらいのいかにもちょっと悪いことしてそうな若い子が三人、男子二人と女子一人が地面に腰をおろして何事か話していた。
おれは彼らを好ましく思ってしまった。

いちゃいちゃASMR放送について

これを朝書いている。寝る前に気持ちよく愛してもらい、朝になって彼女のことを思い出す。一晩寝たといっても差し支えないほどである。
冗談はさておき、文字通り見ず知らずの彼女の声を聞いてスマートフォンのキーボードで愛を囁くことがこんなに楽しい、楽しい?ちょっと違う、愛おしい、と言ったほうがいいかもしれない。ともかくこうもつい恥ずかしいことをコメントしてしまったり、吐息や耳をなめる音を聞いて満たされたような気分になるのはなぜだろう。
思えば、おれは話を聞いてもらうことがあまりないのである。いつも大抵聞き役であり、言われたことに反応するのが好きである。ASMR放送を聞いているときはいつもと逆のことをしてもらっているのかもしれない。されたいことをされにきて、自分のコメントを拾ってもらって、たまにリクエストにも答えてもらう。
いつもと同じじゃないか?されたことに反応するところから始まる。でも、されたいことをされに来ているのが違うのだ。
されたいことをされに行く、これは実は日常生活であまり得られないことだ。お金を払えば髪を切ってもらったりマッサージをしてもらったりできるが、金銭のやり取りが発生しない間柄においてされたいことをされることってあまりない。
自分が、されたいことを表明するのが苦手だというだけではないかという気がしてきた。
日常社会生活でしたいことをしてもらうなんてことはあまり要求することができない。人に仕事を頼むとかね。嘘言ってる、人にいろいろ頼んでるじゃないか。でもこれは自分がしてほしいことをしてもらってるわけではないから。
自分がしてほしいことをしてほしいと表明してしてもらうことが本当にあったろうか?思うにおれはすごく面倒見のいい両親と兄弟姉妹に育てられたのでほしいものはなんでも言う前に与えられていたのだ。無論これは金銭物品的な話ではなく、ケア的な話である。この話をすると嫁には嫌がられる。なんて恵まれた野郎だと言われる。その通り、おれは自分がほしいものを言わなくても与えられるほどに恵まれていたのだから。
大学生になると、友達もいなくて先生とも上手くいかなくて他人のケアが欲しくなった。学生相談室に何度か通った。自ら欲して見ず知らずの人のサービスを受けに行った。良い場所だった。棟の奥まった薄暗い場所。おうちのドアみたいな扉を開くと、こぢんまりした部屋だった。畳敷きの、陽当たりのいい、6畳くらいのスペースが奥にあり、手前に簡素なイスと机があった。イスは二つ向かい合って置かれているので、そこで話をした。
本音で話せていたというと俗っぽ過ぎるしちょっと違う気がする。浮かんでくるたどたどしい言葉で、自分のことをなるべく素直に話した。彼女がいるかどうかみたいな話もした気がする。おれは話せて嬉しかった。気持ちよかった。会話とは違う。自由な表現の喜びだったのだろうと思う。

もうわからない

退屈しているのか、疲れているだけなのか。身体が疲れているのか、何が疲れているのか、今決めたことは正しいのか(これはいつでもわからない)
会社勤めに真の意味での自分の意思が発揮されることなどないから、わからないのだ。いつも誰かに決められている。おれには役職があるのでちょっと決定権がある。決定もいくつか下した。でも自分で決めたことなど何ひとつない。気持ち悪い。気持ち悪い。これは自立ではない。今ならはっきりとわかる。ただ苦しむことに慣れただけである。汚いものを吸ったり吐いたりして生きることができるようになっただけである。今の自分のあり方を肯定的に認めてやることは決してできない。

クソみたいな気分が爆発して、ずっと読みたかった本を読みたくなって途中の駅で降りた。夜になっても開いてる本屋のひとつくらいあるだろうと思ったら一軒もなかった。仕方なく駅に戻ったら女の人が改札の駅員さんに甲高い声でワーワーわめいていた。怒っていた。Wi-Fiがなんだとか言っている。全然意味不明だった。女の人を止めてやりたかった。でも怖かったし火に油になりそうでやめた。あの人が去ってから駅員に話しかけることにした。話しかけてあげないとと思った。
駅のトイレは遠かったが着替えに行った。会社の名前が入ったポロシャツで関わるべきでないと思った。別によかったと思うが、なんでこうしたのかよくわからない。
戻ると女の人は黙って落ち着いていた。あのとき咄嗟に話しかけなくてよかったと思った。女の人が去るのを待っていた。
上司から音声通話の通知がきた。出た。なんの受けこたえもしてやりたくなかったが、困っているであろう後輩の仕事についての質問だったので答えた。気分が悪くなった。善意が引っ込みそうになるのを引っ張りだして、駅員さんに声をかけた。
改札内のお菓子屋さんでクッキーみたいなのと、自販機で緑茶を買った。あの女の人がいたとこ見てましたごくろうさまですとたくさん頭を下げながら渡すと駅員は笑って受け取ってくれた。変なやつだと思われたろうけど、変なやつがにこやかに変な善意を発揮しただけなので、少なくとも笑いながら心中バカにはしてくれるだろうと思った。たぶん、寝る前とかにも。
涙が出そうだった。このまま酒を飲みに店に駆け込んだらきっといい話ができると思ったけど、電車に乗った。涙はひっこんだ。
前に座ったワックスでなでつけたおじさんの髪はトゲトゲでぶつぶつで怖かったから視線を背けた。
また途中の駅で降りた。良さそうな飲み屋のことを思い出したから。店構えだけでも眺めれば入る勇気も湧くかもしれないと思った。手元に現金がなかったのでコンビニにおろしにいったら、今度は若い男が怒ってATMを蹴飛ばしていた。クソがよ、と叫んでいた。迫力はなかった。蹴飛ばす足はそんなに強くなかった。芝居だと感じた。本気じゃなかった。本当にATMを蹴飛ばしたくなったのではないだろう、本当にしたかったことは別にあるのだろうと思った。さっきの女の人は本気で怒鳴っていたから怖かった。でも今の男の人のほうが救いようがないように思えた。ATMを蹴飛ばしたいわけじゃないのにATMを蹴飛ばすような人をどうしたらいいんだろう、どうして人をこんなふうにしてしまうのだろうと思った。
ひどい夜だ。飲み屋には結局行かなかった。家族のことを思った。遅くなっても夕飯を用意してくれる家族のことを。早く帰ろうと思った。
おれのこの気分はぜんぜん治ったりしない。隠してただけ。治ることはないだろう。治すのもよくない。すごく死にたいけど長生きしなければならない。

マイク越しに人を愛することについて

本当に大好きだし本当に好ましく思う。愛情の演技を人に届ける。眠ろうとする人と、眠れない人に届ける。心底欲しているものがその通りに届いている感じがする。
大好き。いたわりを感じる、こっちを向いてくれているのを感じる、あり方が心地いいのだ。自分の声を聞きたがってる人がいることを知っていて、吐息を聞かせたり耳をなめたりすると悦ばれることをわかっていて、その上で声を聴かせてくれたり吐息を聞かせてくれたり耳をなめてくれたりする。
わたしはあなたを気持ちよくできる、という自信をこそおれは気持ちよく感じているのかもしれない。

シコらぬこと

自慰による射精は強力な鎮静剤である。精神のはたらきを穏やかにし、その日の苦しみに悶えることを妨げ、退屈な日々を静かに耐えることを可能にする鎮静剤である。
シコらぬことで日々を見つめる。己と向き合う。鎮静剤の投与をやめると、日々の退屈がリアルに襲ってくる。苦しい。楽になりたい。そこでオカズを探すことをするのではなく、本当に楽になるためのことをすること。どうでもいい人に嫌われてもいいと思うこと、どうでもいい人をちゃんとどうでもいいと思うこと、愛すべき人を愛すること。僕にとっての愛すべき人とは嫁、母親、父親、きょうだい、友達、そして道ゆく名も知らぬ人、ツイッターの長年のフォロワー、お店で出会う店員さんである。それ以外はみんなどうでもいい人である。

シコることについての補足。シコって果てることは活力を失うことだと思う人がいるが正しい感覚ではない。精神のはたらきが穏やかになり、暮らしのまわりのことへの意識が希薄になるのである。

駅のホームにて

青空に糞の匂い:
すがすがしく野生的でインモラルであるさま。

電車を駅のベンチで青空をみながら炭酸水を飲んで待っていると糞の匂いがしてきた。嫌な気分にはならなかった。晴れ渡り、美しく雲はわき、木々の緑がビルの間に映えるとき、糞の匂いすら爽快なものとなる。
そうではない。糞の匂いであるからこそ爽快なのである。人工の構造物に視界のほとんどをかこまれながらも、地球の美しさのほんの一端に包まれるようなこの瞬間に、生命をこの上なく想起させる匂いがすることが爽快なのだ。
電車に乗ると今度は正露丸の匂いである。おれの便意も高まってきた。今日は大便に縁のある日だ。

仕事について

属人性を排するといえば聞こえはいいけど、おれからしたら「お前のできること全部誰でもできるようにしろ」だしな。無理だしつまんね

子供、ことに男子について

まだ幼い、小学校高学年くらいの兄弟が母親に連れられて電車に乗っている。ふたりとも利口そうであり、そこそこにわんぱくである。ふたりで手足をばたつかせ、じゃれあっては母親に叱られている。
兄のほうは声変わりしたかしてないかという声がする。早い方かもしれない。良い声である。よく通り、ぺらぺらと喋る。話をしたい、話を聞いてほしいという声である。
弟はすでに腰掛けている。その隣の席が空いた。座りなよとしきりに促す弟の声を聞き、兄は朗々と
「座りたいと思っている人が座るべきなのである」
そう言って座ることを拒むともなく拒んだ。兄のすぐ横には勤め人風の、壮年の男性が立っていた。彼のいう座りたいと思っている人とはこの人だろう。「この人が座るべきなのである」。彼は本当はこの人に席を譲りたかったはずだ。それから、電車の席には仕事帰りの大人が座るべきだと彼は考えているのだろう。
彼の言葉は優しさから出たのではないと思う。子供特有の、それもこの年代の男子に特有の自分の正義(自分の考え、ではないのだ。彼にとっての正義である)が、照れとともに溢れ出て、彼を変な口調にしたのだ。
やがて彼は空いた席に腰掛けると、月の大きさやら百貨店のことやら母親とぺらぺら話している。今日は遊びに行った帰りらしい。何が楽しかったとかずっと話している。楽しかったのだろう。遊び疲れているのだろう、腰掛けてしばらくして彼は「つかれた」とこぼした。