タコノキ

実がなる

AM休に散歩する、職場の自分を思う

愛想

ゆっくり歩こう。ゆっくり返事をしよう。半笑いでごまかすのをやめよう、愛想がないことは愛想がないことではない。愛想とは顔の表情や声色のことではない。いや、ではあるかもしれないが、人を愛して接するとは、愛想をふりまくことではない。感情だけが人格ではない。誠意とは人をその場限り害さぬよう努めることではない。誠意ある年長者のあり方を、おれはたくさん見てきたはずである。
だから全てをゆっくり行うべきなのである。お手つきめいて笑顔や相づちを振り撒くべきではないのである。確実に自分がしたいように返事と対応をするべきなのである。即座に人に優しくすることが優しいことではない。真綿ばかり千切っては投げるようなコミュニケーションをとってはならない。

愛着と関係

愛着のない場所で、愛着のない人たちのことを考えるのはつまらない。所詮自分には関係のない人たちだからだ。
関係とは距離である。距離の近いところにどれだけ長く居たかである。人は距離を克服してなどいない。地元とはそういう場所である。関係のある人々が住まう場所である。積み重ねた近距離の関係と時間は掛け算の結果として積み重なっている。建物は顕著である。自分とどれだけ近くにどれだけ長い時間あったか。その単純な掛け算によって、自分と建物の関係の強さは決まるのである。
人は周囲と関係し、望むと望まざるにかかわらず、関係の中で生きる。関係とは距離(近さ)と時間の掛け算である。距離を接触と言い換えてもいい。より近いほど接触の度合いは高い。建物と人々との関係を生き、関係を無視せず、関係の中に身を置くべきなのである。
関係のない人々、関係のない建物のことを考えてもつまらない。地元とは、その全てが自分に関係する場所のことをいうのである。

喜び

夢か幻の中にいるようであった。あまりに気持ちがいいものだったから。でも、これが、これこそが世界の喜びに浸るということだったら、おれはこれをいつまでも続けていたい。
今コンビニで座って、別においしくはないパンを食べながら電車を待っている。秋晴れのお散歩気分が抜けて、だんだんと平日の現実感が出てくる。
現実感と言った。でも、これが、この、今おれが現実感と呼ぶものは、実は単なる世界全体への漠然とした嫌悪でしかないのではと思った。世界を嫌うあまり、嫌いなものこそを現実と呼び、愛すべきものを夢や幻にたとえているのだとしたら。そんな心当たりがある。
言葉で考えることの意味が少しわかった。象徴に身を委ねることで初めて考えることができるものが確かにある。象徴の力を借りなければわからないことがあるのだ。そして、そのわかり得たものを完全に言葉にすることはできない。しかしそれを言葉にすることによって、取りこぼした何物かをまた認識するのである。
現実界は、象徴界の働きの外側にそのつど生成される、と『生き延びるためのラカン』にある。