タコノキ

実がなる

使い切りの電池ってなんかかっこいいじゃん

ニカド電池というのを最近聞かない。調べてみるとカドミウムの毒性が取り沙汰されて以来、別の電池への代替が進んでいるらしい。
小さい頃買ってもらった車のラジコンにはニカド電池が使われていた。電池を取り外して、専用のアダプタか何かに差して充電する仕組みだったと思う。電池を捨てずに使うなんて不思議だと思った。
実家に積まれている段ボール。マメな母はひとつひとつ、中身を記した貼り紙をしてある。「車、リモコン」。ニカド電池が使われているそのラジコンは、そんな貼り紙のされた段ボールの中にしまいこまれている。
ニカド、という昔の日本流の造語らしい名前の電池で動く、かつて僕が好きだったおもちゃは、そこに置かれて何年経つかもよくわからない段ボールの中にある。

ゲームボーイが大好きだった。当時の携帯ゲーム機は単三電池で動くものだったと思う。電池が切れたり交換したりしたことをあまり覚えていない。多分、電池がなかったらないで別の遊びをしていたのだろうし、電池の交換は自分以外のきょうだいが遊ぶ時にやっていたのだろう。
近年は充電式の電池が売っている。一方で、使い切りの乾電池もまだまだたくさん売っている。充電式の単三電池を使ってみたことがあるが、あれは使っているうちに劣化して保ちが悪くなっていくし、万全の状態でも現行最新の使い切り乾電池の保ちにはかなわない。単三電池はまだまだ使い切りを買うだろう。

使い切り電池というのは、スマホ等々で充電式バッテリーのライフサイクルに慣れ親しんで久しい自分にとってみると、なんだか少しカッコいい。使い切りの動力、というのが良い。弾丸の薬莢や、ロケットの打ち上げで切り離される固形燃料ブースターのようだ。
そういえば趣味で使っている万年筆も、僕はカートリッジ式のインキを使っている。インバータ(空になったらインク瓶から吸い上げて補充する)も持ってはいるが、使い切りのカートリッジのほうが好きだ。単にインバータの扱いが面倒というのもあるが、カートリッジというもの自体が好きなのだと思う。

そういえば、ゲームボーイのソフトも「カートリッジ」と呼んだような気がする(カセット、カセットと口で呼んではいたが、たしか正式な名前はカートリッジだったはずだ)。
あれは使い切りというか、遊ぶソフトによって差し替えるものだった。
今やゲームはダウンロード販売が主流になったし、その方が全然遊びやすい。習慣的に起動したいソフトが複数ある場合なんか特にそうだ。そういうソフトはNintendo Switchに特に多くて、そういう遊び方ができるからこその楽しみがたくさんある。最近でいえばF-ZERO 99とかテトリス99とか。あれはちょこちょこ長く遊ぶものだから、いちいちカートリッジを差し替えてはいられないだろう。ダウンロードして、すぐに呼び出して起動できるからこその遊びだ。
でも、物理的視覚的触覚的にカートリッジが引き出しにいっぱい詰まっているあの感じは代え難いものがあった。

そういえば、ポケモンのソフビを手放さない子どもだった。ソフビは良かった。小さくて軽いからこっそり外に持って行けるし、お風呂に持ち込んでも大丈夫。
回転寿司のレーンにソフビ人形をこっそり流して、帰ってくると嬉しかった。自分でできる、かなりスリリングないないいないばあである。
ポケモンのソフビ人形は今でも商品展開が続いているようだ。嬉しく思う。ソフビの良さはまだまだ通用するみたいだ。軽くて小さい、水も平気。そこそこの強度。現代の持ち歩きアイテムに好まれる性質を備えている。
そういえば、iPhoneは世代を重ねるにつれてどんどん頑丈になって、どんどん水に強くなって、それこそおもちゃみたいにぽいぽい扱える感じになってきた。高級品だからそんなわけないと言う人もいるかもしれないけど、高級品だからこそそんなふうに使い倒されなければならないと僕は思う。丁寧に箱にしまったり、ケースにしまったりしないといけない高級品は、持ってて嬉しいかもしれないけど生活に寄り添うことはできない。
バーキンのバッグを、バーキンの偉い人がテレビでバンバン投げたり踏んづけたりして紹介したなんて逸話を目にしたけど本当だろうか。本当だとしたら、僕もそのうちバーキンのバッグを持つようになるかもしれない。