居酒屋にて

 酔っ払いの挙動というのは、酔ったからそうなるのではなくて、酔っ払った身体をなるべく楽に動かそうとするから、酔っ払いになる。酔っ払ってみると、思う。

 たとえば。呂律をきちんと話すほどアゴに力を入れていられないから、話す声がグダグダする。話す内容のほうもあれこれ熟慮していられないから、口をつくままに話をする。足元がおぼつかないのも、歩行ルートを頭で綿密に演算できないから、蛇行してでも歩く。歩かぬことには帰れないからである。

 これを我慢するとどうなるか。我慢して、冷静にふるまったり、まっすぐ姿勢良く歩こうとしたりすると、たちまち気持ち悪くなって、頭が痛くなったり、起きていられなくなったりする。酒を飲んだあとの酔っ払いの挙動は、アルコールでやられた身体を、それでも楽に動かし続けるための工夫なのである。

 逆に言えば、工夫しないときちんと酔っ払いにもなれない。ただ酒を飲んで、大人しくしていると、ただアルコールでやられるだけだ。損した気分になる。飲んだら飲んだなりに、アルコールでやられた頭と身体で考えないといけない。

 しかしおそらくこうすることで、自分の身体を楽に操縦する術を学ぶこともできる。酒に酔った省エネ・高出力モードの社交性を、おれはいま、居酒屋のカウンターで、大声で、自信たっぷりに語ることで、おれは学習する。

「……AIがいくら進歩しようとね、人間にはね、永遠の喜びが、必ずどこかにあんの」

 酩酊したときの身体の動かし方を学習する。その方が楽だと気がつく。つまり、飲兵衛は飲んでいなくても、やがていつでも飲兵衛みたいなタチになるというわけだ。これはおおかたの経験に一致する見解だと思う。

 「いや、ハゲてきたよ、きたけどさ、おれの今の仕上がり的にはさぁ、ハゲても問題ないって思ってるわけ。おれは」

 一方でおれは、この酩酊をどうやってやり過ごそうかと工夫に工夫を重ねている。おれは酒が弱い。だから、この、手元のビールの中瓶と格闘しながら、酔っ払いの所作を実践している。
 
 頭が回らないから、会話の返事はいちいち一拍間を置いて。言葉は口をつくままになるべく躊躇なく。事実、その方が楽なのだった。しかしさっきから深呼吸ともため息ともつかない呼吸が止まらない。酔うと大声で喋る方がラク。しかし酸欠になる。
 
 おれが具合が悪くてどうしようもなくなるのは、いつも酸欠気味のとき。横の友達と自撮りを一枚撮って、目のすわった自分の写真を見て、おれは外の空気を吸いに行くことにした。これも、酔っ払いの知恵。

 ありがたく夜風を吸い込み吐き出し考える。……大病をやってみて初めて人生のありがたみがわかった、周りの人を大切にしようと思った、みたいなのは、よく聞く話だ。
 つまり、おれは、そのミニマルなやつを、ごっこ遊びとしていま飲み屋でやっているのかもしれない。酒を飲んで、たらふくたべて、思うように身体を動かせない中で、それでも横にいる友達とたくさん話をしようとする。幸い、酩酊した人間はたくさん話をしたくなるのだが、そうすると疲れてくる。疲れてもなお、なるべく楽に話をしようとする。そうすると素直になる。店を出る頃には、なにか気分が良くなっている……そういう体験を、おれはどんどんやっていくべきだろう。人前であまり正直にやれなくて悩んできた身だからこそ、積極的に人前で酔っ払って、素直な話をどんどんさせてもらうべきである。

 友達各位は、まあ、お付き合いください。

ツンメリ(小説)

 まったく夢の話だが、少し面白かったので書いておこうと思った。

 夕方ごろの自宅の居間で、座布団の上で相撲中継を見ていた。相撲にたいした興味があるわけではないが、やかましくもなく儀礼的に試合(と、呼ぶのかもよく知らない)が進行されていくのが何となく気分よかったので、相撲中継の時間にはテレビをつけるようにしていた。
 行司がハッケヨイと大声を張り上げる。裸の相撲取りの取っ組み合いが綺麗に見えるのは、これのおかげもあろうと思う。会場の音声をテレビはそのまま伝えており、大入満員の、おそらく両国国技館のあの土俵のまわりにみっちり客が座っている。客はときおり拍手をしたり歓声をあげたりするが、どこか厳粛な態度を保っているのは、おそらく、土俵のつくりと古めかしい行司の大音声が格式を感じさせるからだろう。相撲を観に行く、となったらおれもあんな顔をするだろうと思った。あの土俵は勝負の場であり、儀礼の舞台なのでもあった。
 などと、おれはそれを確か、座卓の上のミカンなんぞ食べながら、そう思っていた。

 ぼんやり画面を見ていると、ある一番が片一方の力士がすっ転ぶように土をつけられ決着した。すると、何やら、行司が戸惑ったような身振りで土俵を下りていく。そうして、カメラがそれを追っている。行司は度々ため息をついているようにも見え、しきりに首を横に振ったりうなずいたりして、なにやら袖のほうで周囲の黒い着物を着た男たちと相談している。何が起きたのだろうと思ったが、テレビアナウンサーも状況を測りかねているようであった。

「えー、今ですね、どうやらこの一番について、審議がなされているようであります、審議が……そうですね、行司がいま、ええ、土俵を下り、いったん通路を抜け、控え室の方へと向かうようです」

 場内はざわついている。今しがた勝負を終えた二人の力士も、よんどころなく土俵のそばに立ったままだ。そうして数分が過ぎたあと、先ほどの行司が土俵に通じる通路から再び現れて、係の者からマイクを受け取り、話し始めた。

「ただいまの一番、東側、猿津山関、えー、土をつけられましたが、思想勝ちといたします」

 シソウガチ、という聞き覚えのない判定の言葉だが、会場は何やら大いに湧いている。何か珍しいことが起きたことは、テレビを見ているおれにもわかった。
 そばにはもう一人、なにやら巻物のような紙を持った若い男が控えている。行司はそれを受け取り、また話し始めた。

「えー、思想勝ちというのはですね。おそらく、ここにいらっしゃる皆々様方の中で、ご存知の方は少ないかと思います。ですので、お話しいたしますとですね。相撲取りとして格調高い振る舞いについて、それを評し、勝ちとするというものであります」

 はて相撲ってそんなものなのか。明らかな勝敗を覆すようなルールがあっていいのか。いや国技たる相撲だからこそそのような取り決めがあるのかもしれない。
 
 「思想勝ちに敬意を表しまして、ここに、さる一番について、祝いの言葉を述べさせていただきます故、みなさま、ご静聴いただければ幸いでございます」

 行司は手元の巻物を広げ、朗々と独特の節回しでそれを読み上げる。狂言だか歌舞伎だかみたいな風に読むものだからおれには全部は聞き取れなかったが、おおよそ、このような内容だった。

 「先の一番、猿津山関、引き落としにて敗れるも、敗れたのちにおのれの尻たぶを両の手でツンメリ、ツンメリと二度持ち上げたり。これは己の技能の不出来を反省するとともに、相手に最大の賛辞を送る仕草にして、何某神に本場所の無事を願うものなることを、戦後何人も覚えてはいなかった。猿津山関はこの古き所作をこの場の大衆の眼前にて示し候……」

 当の猿津山本人は意図したところであったろうか。たぶん、そうではないだろう。尻たぶを両手で持ち上げるなんぞ、あれだけ激しく裸一貫マワシひとつで取っ組み合ったあとなら、たまたまやってしまいそうである。行司の言う「ツンメリ」というのが肝なのかもしれないが、さて「ツンメリ」とはどのような所作か、わからない。そうして誰もが、おそらくほとんど全ての日本人が忘れ去っていた「ツンメリ」なる所作で、おそらくは本当に偶然ツンメリと符合する所作で、尻たぶを持ち上げたゆえに、ええい先ほどの勝敗なぞどうでもよい、戦後八十年来見ることのなかった神事がかの者の手によって成されたのだから、めでたしめでたし、ということのようだった。
 行司が言葉を言い終えたあとは、客席からパラパラとぎこちない拍手が起きた。当の猿津山は、表情を崩さず、静かにはけていった。

 たちまちおれの見ているテレビの画面は、行司が今しがた読み上げたらしい巻物の文字を、縦書きのテロップで画面に左から右へ流し始めた。国技館の映像はその後ろに隠れてしまって、次の一番が始まっているのに力士の顔もよくみえない。筆文字を黄色く抜いた達筆の文字が、つらつらと左から右へ流れ、やがて画面を覆ってしまった。
 おれはなんだか馬鹿馬鹿しいものを見たような気がしたので、座卓に散らかしたミカンの皮をゴミ箱へ捨てて、コーヒーでも淹れるかと思って台所に向かう。途中、おれも自分の両の尻たぶを掴んで持ち上げてみたが、やはりツンメリとはなんなのかよくわからなかった。

AVとか観るんですか

女の人から「AVとか観るんですか?」と聞かれたことがある。おれは「観ますよ。買うし。個室ビデオ屋も使ったことがある」と答えた。その女の人からは「よっぽど好きなんですね」と言われた。いや、よっぽど、ではないと思う。AVを買うことがあって個室ビデオ屋に入ったことがある男はそんなに少数派じゃない。後者は少ないかもしれないが、あの手の店が、平日の夜に満室で入れないことだってあるのだ。絶対数が少ないわけではない。個室ビデオ屋はおれの知っている店は何故か店員が全員スーツ着用で、やたらと愛想がいい。笑顔を振り撒くとかではなく、気前良さげな野太い声で「いらっしゃいませ」と声をかけながらビデオパッケージの整理をしている。ビデオの陳列棚付近にはおれと同じような仕事帰りの男性が数名いて、だいたいはおれより年が上だ。顔の見えないカウンターでDVDディスクを二、三枚借りて、テレビとデッキの置かれた狭い防音室に入る。おれはここで夜のNHKニュースとか見るのがすごく好きで、肝心のビデオをしばらく放っておいたりする。部屋は案外明るくて、合皮張りの一人がけソファーだったり、ただの真っ平らなマットだったりするわけだが、いずれも快適で、徹底的に清掃され無香性の消臭剤を使ったであろう、あまりにもなんの匂いもしない。人工的な快適さである。椅子から手の届く位置に壁掛けのティッシュケースホルダーがあり、なるほどなと思う。肝心のビデオは旧作を借りるとやや懐かしい感じの画質だったりする。この手のビデオの冒頭に必ずある業界団体の自主審査の証明ロゴマークつきの「同意のもと撮影しています」的な、ものものしいアナウンスが終わると、本編が始まる。
奇妙な空間だと思う。でも静かでいい。目の前には没頭すべき映像もある。休日は映画館とここのどちらかにしか来れないと言われたら、おれは月一回だけ映画館に行って、あとは毎日ここに来るかもしれない。

呼称はさまざまあれどアバターを前面に出して活動する女の人がいる。支援サイトの一番上のプランで、月数千円で個別メッセージのやりとり可、というものを見た。正直これはかなり良いなと思って、入会ボタンを押しそうになった。実写で活動している人ならそうは思わなかったと思う。Vの人も所詮中の人と言われるが、やはりどんなガワを見せて活動するかはすごく重要であって、おれはその人のガワがすごく好きだった。アバターが好みであればこそ個別メッセージのやり取りが良いな、と思ったのだ。これが、個別通話、だったら、特典としては上等かもしれないが、おれはそんなに惹かれなかったろう。そして、おもしろいのは、実写で活動している人だったとしたなら、おそらくこれが逆転するであろうことである。あくまでも架空の存在、というポーズで活動するのであれば、肉声をおれ個人に向けられても興ざめではないか。
また、そのVの人は、個別メッセージのやり取りを最上位の支援プランのお礼としており、それ以上のプランはなかった。色々考慮してこれが限度だなという判断なのかなと思う。もっと極端に、月数万円で毎週通話可能、みたいな人も見たことがあるが、そこまでいくともうそれは巷の支援サイトでやることではないような気がする。

Twitterのエロ自撮りアカウントを眺める。
おすすめタブに大量に流れてくる中から、良い写りのおっぱいを選んでブックマークに放り込むのだが、この中のどれだけが自撮り本人が運営するアカウントだろう。適当なAVのスチルの転載とかかもしれない。中でもワードフィルターを逃れるような伏せ字、もじり等を多用するのは、中身業者のおじさんではないか。と思う。メンズエステのレビューでHJとか書くのと同じ匂いがする。あるいは、音声を投稿している人は、本人の可能性が高いかもしれない。そうでなきゃ抜けないというわけではなく、これを投稿したのが本人である方がいい。エロアカウントをいわゆる"実用の"ためだけに探しているなら、中身がアカウント販売業者であろうが、投稿内容だけ吟味すればいい。おれは実用性以外の部分に夢を見たいので、エロ自撮りアカウントをブックマークするのをやめない。
むろん、「そういう活動」をしっかりやっている人、動画とか写真をきちんと作って配布している人はそれはそれで好きだが、もしかしたら、顔が映らないように下着姿で自撮りをして、それを後ろ暗い気晴らしとしてごくたまにインターネットに投稿するだけの女の人がいるかもしれない、という夢をおれはみているわけだ。この場合の「いるかもしれない」とは、藪でツチノコを探すような「いるかもしれない」ではなく、この今手元でブックマークしたアカウントがその本人かもしれない、ということである。そもそもの実在については、全然疑っていない。どこかにいると思う。ところで今、全く別のアカウントで全く同じ写真を使っているケースを見たし、同じアカウントで別人の写真を使っているケースも見た。だいたいは、そんなものだろう。

缶コーヒー(小説)

自販機の缶コーヒーが温かくなった。
誰かが入れ替えたのだ。

おれは歩きながらプルタブをあけて、カロリーメイトをかじった。

いつのまにか涼しくなった。
今年の長すぎた夏がようやく終わったのは、9月をすぎて10月になってからだった。コンビニにカボチャの飾りが並びはじめた。
歩いていたら駅を通り過ぎて、駅前の広場も抜けて、朝の人気の少ない広い通りに出た。路肩にはベンチがあるので、そこに座った。
缶コーヒーとカロリーメイトを交互に口に運ぶ。棒状のカロリーメイトをパッケージの中で半分に折り、それを一口で食べる。コーヒーを飲む。

繰り返しながら曇った空を見上げる。
大きく息をつく。タバコでも吸っているように。
金曜日の朝にこんなことをしているのは、おれだけだ。と思った。
いや、おれだけではないだろう。
どこかにこうして休んでいる人がいるだろう。
こうして休んでいるおれに構わず、今日もいつもの電車がホームを出る音がする。ガタン、ゴトン、という音がだんだん早くなっていくのが、遠くに聞こえる。きっとその中には数千人の乗客がいて、窮屈な顔をして、黙って運ばれているだろう。

手元のカロリーメイトがなくなった。コーヒーがまだ少し残っている。

おれはベンチを立った。

背後の車道を挟んで向かいにファミリーマートがあって、おれはもう一杯コーヒーが飲みたくて、ついでにおやつも欲しくて、缶コーヒーの残りを歯にカンカン打ち付けて飲みきって、そのままブルゾンのポケットに手を入れて歩きはじめた。

交差点の横断歩道まで歩いて、信号が変わるのを待つ。ポケットに手を入れたまま。左手には、空き缶を握っている。ポケットには携帯とICカード、それに家の鍵が入っている。持っているものはそれだけだ。
いつもは通勤の時に大きなリュックを背負っている。今日はその荷物もない。

ふーっ、と、おれはまた息をついた。
ちょうど信号が青に変わった。

向かいの通りの角には飲み屋がある。けさはゴミ袋が大きいの3つほど出されていた。
カラスがそれを、植え込みの柵から狙っている。おれはカラスの方を向いて、腕をぶーんと振ったら、カラスはぴょんぴょん車道を跳ねていき、ついでに翼を広げて飛んでいった。
おれはそれを見送って、もう来るなよ、と独り言を言った。

ファミリーマートに入る。
比較的小さい店舗。入って左側にチルド食品の棚があって、その向かいにパンの棚。
棚の間を抜けて、奥の冷蔵庫でコーヒーを探す。軽く一杯でいいから、500mlのボトルはいらない。左上端っこの、缶の並びの中から、スタバの緑の缶を手に取った。
レジに持って行ったら、えらく歳とった婆さんがいる。こちらに背を向けてフライヤーを触っていたので、

「すみません」

声をかけると、婆さんは「あいよ」と八百屋みたいな返事をしながらレジに向き直った。

「可愛い缶だねえ」

皺のある小さな手でバーコードをスキャンしながらおれに話しかけてくる。ここは本当にコンビニか。

「そっスね、パッケージ可愛いスよね」
「コーヒーも色々あるからねえ、あたしもっとゴツい、黒いのしか知らないけど」
「まあだいたい飲むのおじさんスからね」

適当な受け応えをする。この人は多分アルバイトではない。店舗オーナー側の人だろう。でなければ、こんな気さくな立ち話をふっかけてくるはずはない。

「180円」
「Suicaで」

レシートいるかとも聞かれず、うやうやしいあいさつも無く、それでコンビニを出た。
風が涼しい。店の中はちょっとだけ暖房が効いていたかもしれない。振り返ると、入り口のドアには、ハロウィンの何がしかのキャンペーンのポスターが貼ってある。ガラス扉の向こうに、婆さんがレジを離れるのが見えた。
おれは缶のプルタブを開けた。

男のこぐ自転車が前からやってくる。ハンドルには一つ大きなゴミ袋が括り付けられていて、中には空き缶が詰め込まれているので、おれは、今日が資源ゴミの日なのを思い出した。
男はちょうどおれの横あたりで自転車を路肩に停めて、そこにある資源ゴミ回収かごを漁り始めた。缶のカゴから、おそらくアルミ缶だけを選り分けて、袋に投げ込んでいる。その様子を、おれは振り返って眺めている。
これがいわゆる資源ごみの持ち去りで、良くないことなのは知っている。しかしまあ別に注意する気も起きない。が、そっちは注意されても当然なことをしているんだし、興味本位で声をかけるくらいいいだろうと思った。

「それ売れるんスか」

コーヒー片手に、不意に世間話をするように。
男は空き缶を漁る手を止めて、半袖の肌寒そうな腕をこすりながらああごめんなさい、こういうの良くないですね、すみません、と繰り返すので、おれはいや別にいいですよと言った。
本当に別にいいのだ。構わない。咎めたいわけじゃない。せめて、人目をちょっと憚るくらいすればとは思うが。
男はもうゴミ袋を地面に置いてしまって、なにやら口ごもっている。これは彼に悪いことをしたかな。彼なりに切実なわけがあって缶漁りをしていたのだ。むしろ注意する方が、市民として誠実だったかも。ただ興味本位で、半分ふざけて声をかけるなんて。おれは悪いことをしたな。などと申し訳なく思っていると、

「僕、でも、これ売ったことなくて。でも、働けてないから何かしなきゃって。売り方も知らないんですけど、他の人がやってるの見て。ああ、お金はまあ、まだあるんですけど、なんていうか」

男は身の上話をし始めた。おれは黙っていただけで、聞いてもいないが、放っても置けない。それとなくうなずきながら聞いていたが、話し始めて三分くらい経ったころ、おれはしびれを切らしてまあまあ一旦そこ座ろうやと言った。おれたちは少し先に見えるベンチに向かって歩き出した。

ベンチに座ってそのあとはやはり彼の話が続いた。さらに十分も経ったので、おれはさっきのコンビニに帰って、彼の分まで缶コーヒーを買ってやらなければならなかった。婆さんにまた見つかるのも恥ずかしいから、セルフレジを通した。

ベンチに戻って彼にコーヒーを渡した。彼は一息に飲み干してしまった。二人でコーヒーの缶を彼が持つ袋に放り込んだが、

「これ、スチールだけどいいんかな」
「わかんないです。売ったことないから」

おれは「金属 買取」とスマホの検索窓に入力した。

腕時計

あの日に見た夕焼けと
あの日に見た夕焼けと
あの日に見た夕焼けは
どれも同じ空の下にあって
俺はあのとき海のそばで、
強い風に吹かれていたけど
十年もたった今日は、同じ夕焼けを
ほんの家のすぐ近く
交差点の角から眺めている

腕には時計があって、
たぶんあの日と同じ17時53分をさしている
あの日たぶんこの時計はまだ作られていなくて
あの日はまだ俺も
腕に時計をすることを知らなかった。

いつか誰かが聞くだろう
これまで何を見て生きてきたのと
そうして俺はこたえるだろう
いつも同じ空ばかり見ていたと

iPhoneを買った

 なんとなく音楽を流したいなと思ってBluetoothスピーカーをつけて、iPhoneを接続し、Apple Musicで直近の再生をたどり、適当なアルバムを再生する。しかしまあ、これだけのことをするのに、これだけの手間とテックが必要なのか。そこにある、3000円のソニーの携帯ラジオでいいんじゃないか。ラジオは聞きたくもないパーソナリティの声とか、どうでもいいアーティストの日常の話とかが流れてくるから、まあ、選曲のセンスが良いとしても、それが嫌なときもある。なんでも自分で選びたいから、人はどんどんテックに金をかける。システムを改良する。オンラインストアが乱立する。ITとは結局のところ選ぶためのものなのだろう。
 このiPhone Airを買ったのはつい昨日で、Apple Storeで受け取ったんだけど、セレブレーションっていうのがあって、やりますか、と聞かれた。iPhone購入に至った経緯なんかをスタッフが聞いて、それをもとに、ようはレストランのサプライズハッピーバースデーみたいなことをする。俺はそれをやってもらうことにした。久しぶりのiPhone購入云々、と言って、ガラス張りの店内のスタッフ総員から拍手をもらう。俺は素直に楽しかった。俺は、スタッフのこの手助けがなければiPhoneを買ったことを素直に喜べなかったかもしれない。最新テックはいつも純粋に楽しいだけのものではない。それが生活に導入されるのなら、なおさらである。
 今俺は嫁と二人分の洗濯物を畳んで仕舞っている途中で飽きて新品のiPhoneでこれを書いているんだけど、洗濯物を畳んで決まった場所に仕舞うところには行動を選ぶ余地はほとんどなくて、ただ事前に定められたことをするだけだなと思う。かたやiPhoneは壁紙ひとつ、ホーム画面のアイコンとウィジェットの並べ方ひとつ自由になんでも選べて、楽しい。しかし下着を拾って取り出しやすいところに置くことと、LINEのウィジェットをどこに置くか決めることの、どちらが明日を生きるために必要かと言われたら、答えは決まりきっている。その順序が逆転することはない。おおむね、生活とは優先順位が定まっており、15万円の端末がそこに転がり込もうと、強固な生活の規則はびくともしない。暮らしは頑固なものであり、飽きてもやめることはできない。
 だけれども新しい端末を手にして俺は嫁や友達や自分の写真を撮りまくらずにはいられないし、予定を片端からカレンダーに登録するのが楽しくてたまらないし、暮らしの様子が何も変わらなくても、俺自身はより活動的になって、より楽しく過ごしている。
 ITは人のためのものであるが、生活のためのものではないということだろう。生活とはマテリアルで、動かしがたく、小手先ではいかんともしがたいものだ。一方で人のほうは、その生活のうえで、わりとふらふらしており、iPhoneひとつでフワーッと行動が変わったりする。つまり、人の存在が生活に紐付いているわけではなくて、ただ乗っかっている。デコレーションケーキみたいなもので、主役かもしれないが、本体ではない。生活の本体は人ではなく、生活それ自体である。しかも、足場はあるが、つかまり立ちできるようなちょうど良い手すりはほとんどない。横になって眠ることはできる。
 洗濯物を畳んで仕舞うことは、人つまり自分のためではなくて、生活それ自体を目的とすることである。人のための行いというのは基本的にもっと軽薄で、キラキラしているか、フワフワしているかしており、一過性のものだ。iPhoneはキラキラにあたる。

健康

眠れなかっただけなら、
それはそれでいいやと思って
いつもより早い電車に乗ることにした。

思えば毎週こんなものだし、
日曜日から月曜日になるとき、
おれは平常心ではいられない。
義務と責任を建前にする場所に
戻っていくのだから。
それが建前であることを認識しつつ、
ダラダラやればよいわけである。

会社で働くと身体の具合が悪くなる。
具合が悪いのを認めないために、
エネルギッシュになる人がいる。
二十代から八十代まで、
僕が見た数百の人間は、全員そうである。
ならばおれはみんなと同じである。
みんなと同じであることは、悪いことではない。
おれはダラダラやっている。

若人よ孤独たれ、自ら稼いで生きよ、
と言う人もあるが、そんなやり方は
往生するまでわからないのが当たり前だ。
もしそんな人がいたら、その人は社会において
深刻な病人として扱われるに違いない。

サンダル

もはや楽しいことはひとつもなく、
何を生活に望むべくもない。
毎日嫌々、だらだら働いて、
あとは家で、
やらないといけない気がすることを
精々やるばかり。
ただ、いつプツンと終わるかもしれない生活を、
ただ続けていくだけである。
人生のよろこび等々は
すでにたかが知れており、
待つに値することはひとつもない、
とまでは言わぬものの、
まあ、待たなくてもいいような気がする。

未来のことなどを考えれば、
いつもそのような気がしてくる。
ただ、今、この電車の窓から見えた
立体駐車場のすきまから見えた
朝の都心の人気の少ない、
パン屋が一つあるだけの
家が事務所かわからない、
古びた建物が並ぶ路地を
ろくに整えもせぬ
寝起きの髪とサンダルで、
ハトやカラスとならんで歩き
道に座り込んではあくびをする。
そういう朝がありえるだろう。

三十歳になった

三十歳になった。
もし、今何か自分が逮捕されるような事態になったとすると、ニュース報道では自分の名前の横に(30)とくっつくようになったわけだが、それがたとえば自動車事故だとして、(25)だった場合とは印象が変わる。
おそらくその印象の違いが、三十歳になるということの社会的意味合いの大体の部分を含んでいる。

何かと、周りの三十代の人たちは腰をやったとか太ってきたとか肉体の変化を憂うことが多い。中には「もう若くない」などという人もいるわけだが、労働者の年齢構成で言ったらまだまだ若いうちに入るわけである。およそ十代は遠い過去であるとしても、「もう若くない」は流石に嘘だろうと思う。少なくとも、ちょうど三十歳の人間が「もう若くない」と言ったら、うんうんそうだねという人よりも、指をこちらに向けて、あんた何を言っとるかと笑う人の方が圧倒的に多いはずである。

三十代を境に体力が落ちた、あるいは落ちる傾向にあるというのも嘘だと思う。
嘘というか、気のせいである。
しかし全く気のせいではあるのだが、認識の上では十年前より体力が落ちたと感じるのは間違いではないとも思う。
年々やるべきことと、やることが可能なことが増えていく。自分の周りにやらなくてはいけないことがどんどん増え、慌ただしく生きるうちに否応なしに自分自身の能力は拡張されて、できるかもしれないこともどんどん増えていく。あるいは、経済的に、ある程度自由に使えるお金がある場合は、そういう意味でもできるかもしれないことが増える。
昔から身の回りに当然のようにあったことの持つ意味も、ようやく正確に理解できるようになる。端的に言えば、身の回りの物事のボリュームが、めちゃくちゃに増えていき、ディテールも細かくなっていく。

たとえば、昔、小学生とか中学生の頃は、ちょっと雨が降っているからと言って、親がスーパーに買い物に行くのを面倒がるのが理解できなかった。傘をさせばいいじゃんとか、最悪、こんくらいの雨なら傘なんてなくてもいいじゃんとか。そんなふうに思っていた。
でも今では、雨の日に徒歩十分のスーパーに行くのはめちゃくちゃ大変なのがわかる。傘をまず玄関で持つこと。この意味と労力が、小学生とか中学生の時はさっぱりわからなかった。次に傘をさす。このとき、自分の視界・運動等々がどれだけ制限されるか、さっぱりわかっていなかった。歩けるんだから変わらないのではない。歩くことが大変になるというのが、よくわからなかった。

ものごとのセオリーが、わかってくるのである。

高校の時、置き勉が禁止だったから、毎日教科書をたくさん持って通学していたけど、親はおれのカバンを持ち上げて「こんなもの背負って歩いて、疲れないのか」という。おれは、やっぱりカバンが重くて疲れるというのがよくわからなかった。歩けるんだから変わらないと思っていた。今では、持ち物を軽くするために工夫を凝らしたり、もう少し小さなカバンが欲しいなとか思うようになったりした。

要するに、昔は求める結果だけしか見えていなかった。やろうと思ってやることができさえすれば、それしか意識に上ってこなかった。雨が降ろうがスーパーに辿り着ければ、晴れている日と変わらない。荷物が重かろうが、駅に着いて電車に乗ってしまえば変わらない。いわゆる「程度の問題」というケースが、全く理解できなかった。
極端な例を言えば、小学校の二十分かそこらの中休みで、勢いよく校庭にかけだして、ドッヂボールなんかやったりする。今思うとまあよくそんなことができたなと思うわけだが、あれも、体力が溢れていたからできたのではなくて、外でドッヂボールをやる以外の結果が何も意識になかったんだと思う。
教室を出て、階段を降りて、靴を履き替えて、ボールを取ってくる、これらのことは、労力に数えていなかった。意識の俎上になかったと言ってもいいくらいだ。今ならきっと、それらの労力を勘定に入れるから、ものの二十分でドッヂボールなんかやらないだろう。それは体力が落ちたからじゃなくて、物事がやっと目に入って、意識に上るようになったから。
体の方は、そう簡単に衰えたりしない。世間的には三十代なんて働き盛りなわけで。けれども、視界に入るものの割合的には、やれたことの一方で、やれていないことがどんどん増えていく。大人になるにつれ、大人になってから日々を過ごすにつれ、身の回りのものがどんどん目に入る、思考に入る、認識するようになる。二十代の頃から多少トレーニングを続けていて、肉体が優れた状態にあるとしても、社会が与えるものや、自ら勝手にひらけていく世界から与えられる認識の方が圧倒的にボリュームがある。そうすると、できることよりも、できていないことが認識を割合的に圧倒していくようになる。

要するに、身の回りのものにいちいち工数が見えてくるわけだ。で、面倒だなと思うことがどんどん増える。ただしそれは、好奇心が薄れたとかエネルギーが減ったとかではない。ただ、事態を正しく認識する力が身についたからによる。
日々が忙しく感じるのはそのせいだ。自分が何にどれだけ工数を消費しているのか、わかるようになってくる。そして、身の回りのことを全部できない自分のこととか、あるいは一日が有限であることそれ自体に不満を持つようになっていく。こうなるのは、避けようのない事態と言っていい。
それを歪んだ形で補おうとする。寝る時間をおろそかにしたり、「筋肉が全てを解決する」なんて半分本気で言ってみたりする。体力があれば良いのではない。体力がどれだけあっても、認識の全てを実施することは不可能だから。そこは、死ぬまでずっと擦り合わせが必要な部分だと思う。

出勤する

 電車の広告を見る。英会話レッスンと結婚相談所の広告は根強く残っているが、脱毛サロンの広告は根こそぎ消えてしまった。怪しい低料金キャンペーンのせいで今まさに法的に揉めているとか、そもそも経営が怪しかったとか。
 彼らは彼らで、ただ仕事をしていたにすぎない。よしそれがどこかの電機会社の資産を吸い上げて倒産に追いやったとしても、ただ仕事としてそういうことをしていたにすぎない。僕はこの辺の事情は全然知らないから、ただ、そういうことがあったと聞いたことがあるだけである。
 結局のところ、これが仕事だと言われればそういうことをしないわけにはいられず、それは生活がかかっているからとかではなくて、目の前にやるべきこととして作業が提示されれば、人はたいていのことを平気でやれてしまうという話であろうと思う。
 フィリピンかどこかでホテルを買い上げて「事務所」としていたどこかの特殊詐欺グループの首謀者が最近捕まって、裁判ではしきりに自身らが行なっていた詐欺行為を「仕事」とか、得た金のことを「売上」とか言っていたそうだ。あながちこれはただの方便とか見栄っ張りではなくて、彼らの認識の上では本当に、電話をかけて回ることや、金の受け取り手に指示を出すことが仕事だったのだろう。
 してみると、いま自分が仕事と思ってやっていることが、果たして世のため人のためであるかどうかは、自分が仕事を続けていくためにはたいしたことではないのかもしれない。ただ快適な事務所があり、話のできる人がおり、作業それ自体が性分に合っていれば、僕はなんだってできてしまうのかもしれない。まったく興味のないことをさも重要な意味を持つように語り、それによって手近の作業を継続せしめ、客から金を得ているのは、客を直接に騙しているのではないにせよ、何者かを何等か騙して何かを継続せしめているに違いないはずである。騙しているのは、自分や部下かもしれない。
 コロナで丸一週間休んで、それが明けて、久しぶりに出勤する。それに際して考えるのはこんなことばかり。何年経っても良識ある社会人にはなれそうにもないなと思うばかりである。