酔っ払いの挙動というのは、酔ったからそうなるのではなくて、酔っ払った身体をなるべく楽に動かそうとするから、酔っ払いになる。酔っ払ってみると、思う。
たとえば。呂律をきちんと話すほどアゴに力を入れていられないから、話す声がグダグダする。話す内容のほうもあれこれ熟慮していられないから、口をつくままに話をする。足元がおぼつかないのも、歩行ルートを頭で綿密に演算できないから、蛇行してでも歩く。歩かぬことには帰れないからである。
これを我慢するとどうなるか。我慢して、冷静にふるまったり、まっすぐ姿勢良く歩こうとしたりすると、たちまち気持ち悪くなって、頭が痛くなったり、起きていられなくなったりする。酒を飲んだあとの酔っ払いの挙動は、アルコールでやられた身体を、それでも楽に動かし続けるための工夫なのである。
逆に言えば、工夫しないときちんと酔っ払いにもなれない。ただ酒を飲んで、大人しくしていると、ただアルコールでやられるだけだ。損した気分になる。飲んだら飲んだなりに、アルコールでやられた頭と身体で考えないといけない。
しかしおそらくこうすることで、自分の身体を楽に操縦する術を学ぶこともできる。酒に酔った省エネ・高出力モードの社交性を、おれはいま、居酒屋のカウンターで、大声で、自信たっぷりに語ることで、おれは学習する。
「……AIがいくら進歩しようとね、人間にはね、永遠の喜びが、必ずどこかにあんの」
酩酊したときの身体の動かし方を学習する。その方が楽だと気がつく。つまり、飲兵衛は飲んでいなくても、やがていつでも飲兵衛みたいなタチになるというわけだ。これはおおかたの経験に一致する見解だと思う。
「いや、ハゲてきたよ、きたけどさ、おれの今の仕上がり的にはさぁ、ハゲても問題ないって思ってるわけ。おれは」
一方でおれは、この酩酊をどうやってやり過ごそうかと工夫に工夫を重ねている。おれは酒が弱い。だから、この、手元のビールの中瓶と格闘しながら、酔っ払いの所作を実践している。
頭が回らないから、会話の返事はいちいち一拍間を置いて。言葉は口をつくままになるべく躊躇なく。事実、その方が楽なのだった。しかしさっきから深呼吸ともため息ともつかない呼吸が止まらない。酔うと大声で喋る方がラク。しかし酸欠になる。
おれが具合が悪くてどうしようもなくなるのは、いつも酸欠気味のとき。横の友達と自撮りを一枚撮って、目のすわった自分の写真を見て、おれは外の空気を吸いに行くことにした。これも、酔っ払いの知恵。
ありがたく夜風を吸い込み吐き出し考える。……大病をやってみて初めて人生のありがたみがわかった、周りの人を大切にしようと思った、みたいなのは、よく聞く話だ。
つまり、おれは、そのミニマルなやつを、ごっこ遊びとしていま飲み屋でやっているのかもしれない。酒を飲んで、たらふくたべて、思うように身体を動かせない中で、それでも横にいる友達とたくさん話をしようとする。幸い、酩酊した人間はたくさん話をしたくなるのだが、そうすると疲れてくる。疲れてもなお、なるべく楽に話をしようとする。そうすると素直になる。店を出る頃には、なにか気分が良くなっている……そういう体験を、おれはどんどんやっていくべきだろう。人前であまり正直にやれなくて悩んできた身だからこそ、積極的に人前で酔っ払って、素直な話をどんどんさせてもらうべきである。
友達各位は、まあ、お付き合いください。
